フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ハゲの権利擁護。そしてハゲからの解放。

高校2年の時、クラスで班をつくり、班ごとにテーマを決めて数コマにわたって研究・発表するという「課題研究」の時間があった。
今思えば2000年から導入された「総合的な学習の時間」を効率的に潰すために教師たちが設定したようにも思えるが、そんな邪推とは裏腹に、おもしろい研究がいくつかあった。
 
サザエさん一家をリアルで考える」
マスオさんを鱒、フネさんを船…など、現実のものにしていくと、果たして磯野家は成り立つのかという研究である。
確かサザエさんにワカメちゃんが食べられたような…。
 
「計算で求められるサイコロ10000万回ふったときの賽の目の確率は本当に正しいか」
なんともアホな研究である。メンバーたちは教室の隅でサイコロを1万回振り、出た目を延々と記録していたのを覚えている。
 
さて、私の班が何をしたかと言うと、まさに今回のお題、「ハゲ」である。
 
「なぜハゲるのか?」を調べるのではない。
「頭の何%地肌が出ていれば、人はその人をハゲと認定するか」を調べる研究であった。
 
幸い学校には頭髪の薄い先生方が多くいらっしゃった。
 
調査方法はこうだ。
薄毛の先生方の「頭全体における地肌があらわになった面積の割合(=地肌率)」を算出したうえで、彼らの顔写真だけを載せたアンケートを作成。
全校生徒に配布してそれぞれの写真の下に「ハゲorハゲてない」を記入してもらう。
統計にかけて「人が人をハゲと認定する地肌率」を明らかにしようとしたのである。
 
この調査法には大きな壁があった。
そう。
地肌率の算出方法、つまり立体である先生方の頭をどう測り、どう面積の計算を行うかである。
 
難解な幾何学を学んでいるはずもなく、途方に暮れた私たちは、数学のヤスオカ先生に相談しに行った。
 
「それはあれや。頭にラップをかぶせてやな。
地肌が出てる部分をマジックでぬりつぶすねん。
ほんなら平面になるやろ。平面なら計算する方法もあるわ。」
 
 
ヤスオカ先生…!
あなた、自分はハゲていないことをいいことに、なんて鬼畜な測量方法を提案するんだ…!
 
 
研究を進める楽しさに憑りつかれ、それが鬼畜であることなど考えもせず、
「素晴らしい方法だ!」とテンションの上がった私は早速先生方への依頼文を作成した。
 
「〇〇先生、このたびは私たちの課題研究に協力していただくべく、ぜひとも貴方様の頭をラップで…云々…」
 
 
さて、さすが関西である。
書面を見た薄毛先生方のほとんどは
「これはおもろい! 俺の頭でよかったらぜひ測ってくれたまえ」
と賛同してくださった。
その数占めて7人程度。
 
今まで誰も手を付けたことがない(であろう)大研究の成功を期待した、その時である。
 
教室で測量の日取りをメンバーと相談していたところに、英語のスミダ先生が現れた。
測量を依頼した一人で、地肌率は計測するまでもない。堂々の100パーセントである。
 
 
「おい、西井、これなあ。ちょっと考えてみたんやが、人権的に問題あるんちゃうか?」
 
 
 
何も言えなかった。
当事者に人権問題と言われてしまっては、反論の余地もない。
 
先生だって本当は生徒の学習を応援したかったはずだ。
その上で私を止めに来たスミダ先生の真剣な表情に、私は彼の踏み込まれたくない部分に土足で踏み込んでしまったことを痛感した。
 
結局その研究が進められることはなかった。
 
 
それから10年。
やや毛量が少なくなった後頭部に触れるたび、 あのころ面白半分で口にしていた「ハゲ」という事象が音を立てて私に近づいてくるのがわかる。
 
ハゲたら全部剃ればいいという意見もあるだろう。
しかし坊主ヘアーは最も似合う似合わないが分かれる髪型だ。
皆がブルースウィルスではない。
また意図的に行うスキンヘッドは反社会的に見られてしまうため、勤め人は簡単に剃ってしまうこともできない。
 

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薄毛について、主宰している「男の男による男のための第5回勉強会『男とプライド/劣等感』」でも話題になった。
「風が吹いたとき髪が乱れて、身体が強張るのを感じるんです…」
「周りの目を気にしてしまって、お辞儀をすることもためらわれる…」
男社会に暗い影を落とす、本当に深刻な問題である。
 
どんよりとした勉強会の雰囲気に、希望の光を照らしたのはメンバーの菅原さんのお話だった。
 
菅原さんの地肌率は50%くらいだろうか。
にもかかわらず、菅原さんは敢えて薄毛が目立つスポーツ刈りにし、薄毛を前面に押し出す。
仕事でかかわる子どもたちにも自虐ネタとして披露するらしい。
 
 
「だって守るものが一つ減るんですよ? こんな楽なことはないです。」
 
 
地肌率が30パーセントを上回るまでには、ハゲジレンマから解放されていたいものである。
 

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Gotchに考える「夢に挑戦するのに年齢は関係ない」神話を疑ってみる話。

数々の賞を受賞し、アニメ化・実写映画化までされた小山宙哉の漫画「宇宙兄弟」。

この作品では主に「挑戦」というテーマに重きが置かれている。
 

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先に夢をかなえ宇宙飛行士になった弟・日々人を追いかけ、31歳ながら宇宙飛行士試験にチャレンジする主人公・南波六太(31歳)はもちろん、六太と同じく試験を受けた福田直人(54歳)も「夢に挑戦するのに年齢は関係ない」という思想を体現しているだろう。
 

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小山宙哉宇宙兄弟」3巻 

 

「夢に挑戦するのに年齢は関係ない」。
 
この力強い言説は、漫画に限らず映画、小説、自己啓発本など様々なメディアで広く説かれるている。
 
この風潮に一石を投じる曲と出会った。
敬愛してやまない、ロックバンドASIAN KUNG FU GENERATIONのボーカル、後藤正文(Gotch)がソロで出した「can't be forever young/命を燃やせよ」である。
 
直訳すれば「いつまでも若くはいられない」というこの歌の中で彼は
 
時計はいつか止まってしまう
この恋もいつか終わってしまう
世間を呪う暇なんてないさ
 
と、 「リライトしてええええええええ」 というゴリゴリロックとは打って変わり、なでやかに歌い上げる。
 
ASIAN KUNG FU GENERATIONの大ヒット曲「リライト」がリリースされた2004年。
 
意味のない想像を原動力に全身全霊で起死回生して消してリライトし まくっていたはずなのに、2014年リリースの「can't be forever young/命を燃やせよ」では、時間には、人生には限りがあることが繰り返し主張されている。
どちらも「いろいろやってみようぜ」ということを題材にしているが、後者のほうがより焦りを感じる。
 
10歳年を取ると人はどう変わるのか。
 

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(2004年GOTCH)
 
 

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(2014年GOTCH)
 
 
 
見た目の話ではない。
 
ましてやメガネの話でもない。
 
 
 
もちろん命や体力には限りがあるが、それ以外に年齢によって制限されるものがないか、ここでは検討したい。
 
ところで、宇宙兄弟のように「夢=仕事」と考えるのであれば、夢を叶えるには本人の意思だけでは成り立たない。
仕事先に受け入れてもらう必要がある。
 
受け入れる会社の中に、六太を応援するJAXA職員、星加 正のようなイカした人がいるならいい。

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 (小山宙哉宇宙兄弟」2巻
 
しかし現実はそう甘くはないかもしれない。
 
「35歳の壁」という言葉がある。
転職する際、30代後半からは一気に転職に不利になってしまうリスクがあるというのだ。
実際リクナビNEXTが「企業の応募要項に見る応募年齢の上限分布」を調べたデータを見てみると、ソフト系、ハード系、どちらも半数弱が、応募者の年齢を35歳以下に制限していることがわかる。
 
ソフト系職種(ソフトウェア・ネットワーク)

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ハード系職種(電気・電子・機械)

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年功序列賃金の場合、35歳で転職、入社すると給料が高額になってしまうから、
『入社後に何年働けるか』を想定すると若い人がよいから、
などの表向きの理由とは別に、企業には本音の理由がある、とリクナビNEXTは言及する。
いくつかあるようだが、一言で言ってしまえば「年上の部下は扱いにくい」ということらしい。
こんな根拠のなさそうなイメージのみの理由で入社年齢制限を設けることは、一見年齢差別のようにも見える。
 
しかしもう少しこの問題を個人に引き付けてみるとどうだろうか。
 
数年前からシェアという概念が広まっている。
車や家を複数で共有するという意味で、中には「部屋をシェアする」という発展版も見られる。
旅先で宿泊先がない場合、他人の家(それが見ず知らずの人の場合もある)に一時的に泊めてもらう(部屋をシェアする)のだ。
SNSで「今日新宿でライブがあるので、誰か泊めてくれませんか?」などの発信もよく見かけるようになった。
 
しかし泊めてほしい!という相手が20代ならまだしも、50代のおじさんだったらどうだろうか。
 
例えば今この瞬間、突然岡田将生が我が家のインターホンを鳴らし、
「今日泊めてくれませんか?」と言ってきたら
「どうぞどうぞ」と快く招くが、
それがもし船越英一郎だったら
「あ、、、ええっと、、ちょっと、、」と私ならなる。
 
岡田将生はよくて船越英一郎は難しいと感じる「なにか」、一般企業が年上を扱いにくいと思う「なにか」が間違いなくある。
 
この「なにか」に関して、コラムニストの小田嶋隆さんが
「入院した中年男性がおしなべて不機嫌な理由」
で、非常に示唆に富んだことを書かれている。
 
彼ら(不機嫌な中年男性)は、会社の駒として語り、動き、笑い、あくまでも特定の組織のひとつの定められた役割として考え、感じ、笑い、働き、徹夜し、訓示を垂れている。
とすれば、役職を剥がされ、立場を喪失し、外骨格としての会社の威儀を離れ、一人の番号付きの入院患者になりかわった時に、そのおっさんなり爺さんなりが、どうふるまって良いのやらわからず、ただただ不機嫌に黙り込むのは、これは、理の当然というのか、人間性の必然ではないか。
 
…もう少し噛み砕いた言い方をするなら、上下関係と利害関係と取引関係と支配・被支配関係で出来上がった垂直的、ピラミッド的な企業社会の中で身につけたおっさんの社会性は、病院や、町内会や、マンションの管理組合や、駅の雑踏や、コンサートの打ち上げのような場所で期待される、水平的で親和的な社会性とは相容れないということだ。
とすると、職を剥がれたおっさんは、どうやって長い老後を生きて行ったら良いのだろうか。

 

つまり不機嫌な男性たちは、会社の縦社会の中で垂直的な関係に慣れすぎてしまったために、肩書抜きで人と親しいコミュニケーションをとる水平的な関係をつくる力が損なわれてしまっている、というのだ。
 
この力の減退が、年を取った人に上記の「制限」を与えているのではないだろうか。
 
転職した際、それまでいた会社の上下関係をそのまま新しい会社に持ち込み、エラそうにふるまったり、自分のエゴを主張する人は確かに扱いにくいだろう。
また挨拶もせず不機嫌な態度をとりそうな人を家に泊めたくはない。
 
裏を返せば、この水平的関係を作る力が、35歳の壁を崩すカギになる、と私は考える。
 
Gotchさんの言うように、「挑戦したいけど環境が悪い」などと世間を呪う暇なんてない。
 一人一人が、どんな状況でも笑顔であいさつする、話しかけられたら丁寧に受け答えする。
そうした積み重ねによって、「年上は扱いにくい」というイメージは払拭され、「年を取っても挑戦できる」神話は、神話ではなく実話になっていく。
 
ちなみに「can't be forever young/命を燃やせよ」 はこう締めくくられる。
 
それでも永遠を願ってしまう
燃やせよ ほら
鳴らせよ まだ
抗える分だ
 

宇宙兄弟(1) (モーニングコミックス)

Can’t Be Forever Young

「え、てか彼女おるん?」という質問の落とし穴

「え、てか彼女おるん?」
 
何年も会っていなかった男友だちと久しぶりに連絡を取ることがあり、じゃあ飲みにでも行こうかと言って飲みに行ったものの、1時間程度お互いの近況や仕事の話、共通の友人の話題など一通り話し終わった後、訪れる沈黙…。
それを避けるために放たれる、最終手段ランキング上位に食い込む質問ワードである。(西井調べ)
 
私たちは何気なくこの質問を使うが、この質問は
「男には女の恋人が、女には男の恋人がいる」
ことが前提になっている。
 
まさに上記と全く同じシチュエーションが、高校の友人と何年かぶりに会って飲んでいるときにおこったのだが、この質問をした私は、その後彼の話を聞いて後悔した。
彼はゲイだったのである。
 
彼はその時初めてカミングアウトをしてくれ、「男は女と付き合っている」という固定観念に縛られた私の質問を意に介していない様子だったが、それでも私は彼をないがしろにしているように感じた。
 
普段何気なく話したことが相手を傷つけることがある。
 
実際近所のおばさんに「そろそろ子どもがほしくなる年よね~」と言われて嫌な思いをしたレズビアンの人もいた。
 
私たちは自分の世界を当たり前とすることで、障がい者、貧困家庭、外国人、あらゆるマイノリティを攻撃してしまう可能性がある。
 
それ以来、私は相手がゲイかもしれない可能性を考え、 “彼女”ではなく“恋人”と言い換えるようにしているが、しかしそれで自分の言葉がナイフになることをすべて防げる訳ではない。
本当にすべての人の性的志向を内包した質問をするのであれば、人形に性愛を抱く人がいることを考慮して
 
「え、てか性愛対象おるん?」
 
にしないといけないし、そもそも他者に対して恒常的に恋愛感情や性的欲求を抱かないAセクシャルの人がいることを考慮すれば
 
「え、てか何かに性愛感じるほう?」
 
と聞かなければならないだろう。
 
 
また、例えば
 
「へーーーーい!お前まだあの娘と付き合ってんのーー???」
 
と友人をいじったら、実はその友人が昨日あの娘にフラれたばかりで…なんてこともある。
それで友人を傷つけてしまったからと言って、フラれたことを知らなかった私にそれを防ぐ手段はない。
 
相手のすべてを理解できない私たちは、何気ない言葉によって相手を傷つけてしまうリスクを常にはらんでいる。
 
もちろん相手を理解しようと努めることは大切だ。
しかし、それでも傷つけてしまった時は、その後「それを言われると傷つくんだ」と相手から言ってもらえるような、フラットな関係性を作っておくこと。
そしてそう言われたらそれを尊重し、二度と同じ内容で相手を傷つけないよう努力することが大切だと私は思う。

石巻市大川小学校で感じたこと。

東北での強い地震
皆様大丈夫でしょうか。

暴力的に奪いとっていく災害に、どうしようもなく恐ろしさを感じてしまいます。

 昨年石巻市の大川小学校を訪れたときに感じたことをFacebookから再掲します。

 

宮城県に住んでいるにもかかわらず恥ずかしながら宮城県の沿岸部へ赴いたことがなく、先週末ようやく雄勝や女川など震災の被害が大きかった町、そして石巻の大川小学校へ行った。 

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 大川小学校は全校生徒108人の7割にあたる74人の児童が死亡、行方不明になった学校で、被害にあった校舎が現存しており、慰霊碑なども立っている。

ここで何が起きたのか、イメージしてみる。

地震後、全校生徒が校庭に避難してクラスごとに並び、点呼をとる。その光景は小中学校で何度も避難訓練をしてきたから思い浮かべられる。

そこから避難所へ移動しているとき、鉄筋コンクリートの柱を折るほどの、校舎の壁をぶちやぶるほどの力と勢いを持つ津波が、彼ら1人1人に衝突する。 

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そうして子どもたちは死んだ。

小学校の頃といえば今日なにして遊ぶかばっかり考えていた。
晩ごはん何?と家に帰るとすぐに聞いていた。
おそらくそれと同じような人生が一気に74消えた。


死にたくない、死にたくないと強く思い、そしてそれと同じくらい、自分の大事な人たちに死んでほしくないと思った。

「震災を忘れないで」という県外の人間なら特によく耳にする言葉。それが意味するのは、被災地を支援しようというメッセージではなく、
死への恐怖心、生きることへの欲求を常に意識として持っておくことだと感じた。

瓦礫や家の基礎など震災の爪痕が残る風景がすっかり消え、復興へ向けて新たな街づくりが進む中、そこだけが切り取られたような、“死”の匂いが強く残る空間だった。

 

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ジャンプ漫画に見る「あの年齢になってしまったジレンマ」

「いつの間にか高校球児が年下になってしまった…」
 
大人びたおにいさんだと思っていた高校生の年齢を追い越してしまったと気付くとき、
私たちは年月が過ぎ去り、いつのまにか年を取っていた自分に気付く。
そして本当に自分は幼いとき思い描いていた「おにいさん」に今なれているのだろうか、と思い悩む。
歳をおうごとに誰しもが抱えるジレンマである。
 
私の場合あまり高校野球になじみがなかったのだが、おそらく同じような現象を少年漫画で体感していた。
 
そう。
あの圧倒的に年上だと感じていたジャンプ漫画の彼らよりも年を食ってしまったからである。
 
圧倒的おにいさん1人目
主人公越前リョーマの所属する青春学園中等部テニス部を率いる最強の部長である。
プレイスタイルは冷静沈着。何事にも動じず、強靭な精神力を持つ。
弾まないドロップショット「零式」、すべての返球を自分のもとに集めてくる「手塚ゾーン」など、もう手のつけようのない大技を繰り出し、果ては自分の体から光り輝くオーラが出現しても全く意に介さない落ち着きぶり。
青学テニス部の精神的柱としてチームを全国優勝に導いた。
 
圧倒的おにいさん2人目
部長ならこの方も外せない。
湘北高校バスケットボール部の不動のセンター、通称「ゴリ」である。
神奈川県随一のセンターとして全国に名を轟かし、全国制覇のために努力を惜しまない。
ケンカも強く、問題児の多い湘北バスケ部をまとめる。
 
圧倒的おにいさん3人目
仙水忍・26歳(幽遊白書
年齢を感じさせない彼ももちろん人間。堂々の26歳である。
夏休みの風物詩、朝の子ども劇場でおなじみ幽遊白書の終盤で登場。
主人公、浦飯幽助の師、幻海師範も持ち得なかった最強の闘気、聖光気を持ち得た人間界最強の存在で、おそらく作品内でもっとも絶望感を与えた敵キャラである。
魔界と人間界をつなぐ境界トンネルを開き、人間界を混乱に陥れようとするが、本当の目的は自分が魔界に行ってみたかっただけという困った人。
そのために人類全てを犠牲にしてしまおうというとんでもないトラベラー魂。
実は悪性のガンにかかっており、魔界で命を落とす。
 
 
この3人の年齢を私は段階的に超えてきた。
そしてそのたびに自問自答を繰り返してきた。
 
つまり
 
16歳
私は大阪天王寺高校(略してテンコー)でテニス部に入っていたが、後輩の中に優秀な人物を見つけ、「テンコーの柱になれ!」と言えるだけの圧倒的リーダーシップを、持っているだろうか?
 
 
20歳
私はバドミントンサークルに所属していたが、膝を痛めてサークルを抜け、不良となってしまった元サークルメンバーが、他校の不良を引き連れて後輩をリンチするために体育館に土足で入ってきたら、その不良たちに
 
「靴を脱げ」
 
と正面切って言えるほどの勇気を、私は持っているだろうか?
 

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井上雄彦SLAM DUNK」8巻)
 
そして今27歳
 光り輝くオーラを身に着け、空を飛び、「はははははははははは」と口を大きく開けて笑えるほどの貫録を、持っているだろうか?
 

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冨樫義博幽遊白書」16巻)

 
という疑問に、さらされてきたのである。
 
 
そしてそのたび、私は彼らに遠く及ばない…と劣等感を感じてきた。
彼らの圧倒的「おにいさん感」の前に屈さずにはいられないのだ。
 
しかし先日幽遊白書を読み直したとき、今まで見落としていたある気づきがあった。
 
それはあの最強として描かれた仙水さんが、じつはその強さとは裏腹に、儚さも持ち合わせているということである。
仙水さんは幼少期、人間が妖怪を虐殺する凄惨な場面に遭遇しており、それが大きなトラウマとなって解離性同一性障害、俗に言う多重人格であることが主人公との闘いの終盤で明かされる。
解離性同一性障害とは、大きなトラウマと遭遇してしまったとき、一人格でそれに応じることは危険と判断されると、その状況下にふさわしい別人格を作り出すという、自分の心を守る精巧なシステムであり、仙水さんは合計7人の人格があった。
中には泣き虫の役割を担う人格もいたという。
 
敵キャラが精神疾患をもっているという異様な作りこみは、正に冨樫ワールドの真骨頂と言えるが、このことは、圧倒的おにいさんの前に縮こまってきた私に大きな示唆を与えてくれた。
 
それはつまり人間は「多面的」であるということである。
 
もちろん人間すべてが多重人格と言いたいのではない。
リーダーシップ、勇気、貫禄、様々な強さを持つおにいさんたちも、それは一面的に見たときだけ見えることであって、別の角度から見れば他の部分、時には弱さなどもが見えてくるのではないか、ということを仙水さんは気付かせてくれた。
 
もしかすると彼らだって
「油断せじゅ行こう」と噛んでしまうことも
たまには妹に甘えたくなることもあるかもしれない。
 
彼らの強い面だけを見てきたから、私は縮こまってきたのだ。
 
また人間を一面的に見てしまうことは、自分に対して行われたときに最も恐ろしい結果を生む。
自己嫌悪に陥るような出来事があったとき、それが自分のすべてだと思ってしまう。
一つの面だけで他人と自分を比べ、劣っていると自己否定をしてしまう。
 
今の自分は嫌だけれど、あの時の自分は良い感じ。
完璧に見えるあの人も実は苦労しているかもしれない。
という、自分と他人のさまざまな面を見直してみることが、私には足りなかったように思う。
 
 
次に来るのは緋村剣心・28歳(るろうに剣心)あたりか。
「剣一本でも この瞳に止まる人々くらいなら なんとか守れるでござるよ」と言えるくらいの包容力の前に立ちすくむことがないようにしたい。
 

AKBのCDを買う恥ずかしさを超えた先にぼくらは真の勇気を手に入れる。

TSUTAYAのCD売り場でアルバイトをしていた6年前、音楽のデータ化が進み、どんどん先細りしていくCD販売業界にとってアイドルの新譜は生命線であった。
特にAKB48は「ポニーテールとシュシュ」「ヘビーローテション」などその人気は絶頂にあり、その派生グループも人気を博していた。
 
AKBの新しいシングルが発売した日、学ランのボタンを3つ開け、ズボンを腰履きし裾をズルズル引きずった、見るからにヤンキー風な男子高校生が店内に入ってきた。
レジカウンターにどっかと身を乗り出した彼は
 
「おい、にーちゃん、AKBの新しいの出たやろ。買うわ。マジで。
え?限定版と通常版?
なんぼ違うん?
えっ高!!
ええわ買うわ。早くだせよ、ほら。」
 
と勢いよくお金を投げ渡し、それだけ買うとさっさと帰っていった。
その態度は威嚇的で、睨みつけるような目で私と限定版CDについていたグッズを交互に見ていた。
年下に「にーちゃん」と言われたのはこれが最初で最後である。
 
こんなこともあった。
 
休日のお昼時の店内。
店長がこっそりと私に
「西井、あそこにいる高校生くらいの客おるやろ。ちょっと気を付けて見といてくれ」と耳打ちした。
 
なるほど。
その細身で気弱そうな男性客は何かを買うわけでもなく店内をウロウロと歩き回り、チラチラとこちらを見ており、いかにも怪しい。
スタッフマニュアルに書いてある万引きの特徴にも重なる。
 
小一時間ほど経っただろうか。
いっこうに購入もせず店にいたそのお客は、突如足早に商品整理をしている私のもとに近づき、どもりながら叫んだ。
 
 
 
「いっ、いい板野友美のシングルはどこにありますかっ!!」
 
 
人気があるとは言え、今のように当たり前のコンテンツにはなっていなかったAKB48
そのCDを男の子が買うのは恥ずかしいものがあった。
1時間以上溜めて溜めて、ようやく彼はその言葉を絞り出すことができたのだ。
 
一方、イケイケに見えるヤンキー君も、板野友美ファンの細身くんと同い年くらいなので、CDを買うとき彼も恥ずかしさを感じても不思議はない。
しかし彼はその恥ずかしさを、勢いと威嚇でやり過ごした。
まるでハリネズミが弱く柔らかい肉の部分を守るためにトゲを伸ばすように、攻撃的な物言いをすることで自分の「弱さ」を隠したのではないだろうか。
 
自分の失敗を指摘されて声を荒げる人。
自分が集団からハブられてしまう不安から逃れるために他の人の悪口を言う人。
 
自分の「弱さ」を受けいれるのは本当に難しい。
 
しかし受け入れなければ、いつまでも攻撃的、もしくは逃避的でいなければならない。
イケイケヤンキー君は自分が強くあるために、言いたくない相手にも「おい、にーちゃん」と言い続けなけらばならないのだ。
 
いくら時間はかかってもいい。
CDを買うためだけに1時間以上かけてもいい。
「アイドルCDを買うのは恥ずかしい。けれど…」と自分の気持ちを素直に受け入れた先に、良好な他人との関係や、無理をしない余裕のある生活がある。
 
細身くん、本当にあなたは素敵です。

脱!「わかった風おじさん」への道

みなさんの周りにもいるのではないだろうか、わかった風おじさん
 
部下や学生など年下の人の意見に対し、
 
「うんうん、ある、あるよね~そうゆうこと」
「俺も若い時はそうゆうことあったなあ」
 
と、したり顔で若い人の悩みはすべて理解しているかの如くふるまう人種のことである。
私も学生の頃こうしたおじさんたちに幾度となく出会ってきたが、彼らは共通して話好きで、そしてなぜか自分の考えを後世に伝えたいという、ややすると恩着せがましい熱意を持っている。
 
明らかにエラそうで、筋違いなことを言うタイプなら、無視をしたり、
「あ~~そうなんですね~~」と聞き流せばいい。
 
恐ろしいのは、話術にたけており、語っていることがすべて正しいことのように見えてしまうタイプである。
このタイプにアドバイスをもらった人は、その理論にすぐに飛びついてしまう。
 
これは一見正解に早くたどり着き効率的なように見えるが、自分の考えがまだまとまっていない状態で他者の意見に飛びつくのは、自分の望むことと違う結果になってしまう危険性をはらんでいる。
 
学生のころ、アルバイト先の先輩に「好きな女の子がいるんですう」と打ち明け、現状を話すと、
 
「それは西井くん、その子、君のこと…好きだゼ?
 なに?今度サークルの合宿に一緒に行く? 西井くん、チャンスだよ!!」
 
と教えてくれた。
恋愛に慣れておらず、この後どうしていいか全く分からなかった私にとって、恋愛経験豊富(そう)な先輩のお言葉は、まさに天使の啓示。
もうこれ以外に正解はありませんと言わんばかりに私はその意見を即採用した訳だが、その後起こる悲劇については詳しく述べる必要はないだろう。
(今思えばなんと適当なアドバイス)
 
また、他人の意見に従うことは、自分で思考して答えを見つけ、成長していく機会も失われてしまう。
上記の合宿告白大作戦を引き合いにすれば、誰かに相談するにせよ、しっかりと自分の力で思いを整理して今後のアプローチを考えたほうが、経験値は身についただろう。
 
さて、目の敵にしてきたわかった風おじさんだが、恐るべきことに27歳になった今、自分もわかった風おじさんになってきている気がする。
仕事がら学生と接する機会が多いのだが、その際
「こうゆう考え方もできるん…だゼ?」
とエラそうにふるまっていたいと思う自分がいてぞっとするのである。
 
こうしたわかった風おじさんへの変貌を止める術として、臨床心理学の大家、故・河合隼雄先生が著書の中で大きな示唆を与えてくれている。
 
カウンセリングは相手の話をじっくり聴く、傾聴という手段がとられるのだが、その際、カウンセラーは “相手の言葉を掴みにいってはならない” と河合先生は論じている。
 
つまり、相手の話を「これはこういうこと」と頭の中で自分流に解釈してしまったり、
相手が話すのを待てなくなって「それはこういうことなんじゃないの」と先に言ってしまったりすると、その解釈に相談者も乗っかってしまい、それ以外の可能性に目が向かなくなる危険性がある、という。
 
この河合先生の話に当てはめると、わかった風おじさんは若者の言葉を掴みまくりである。
まるで人が思うこと、考えることはすべて理解している万能者のごとく、若者の口から次の言葉を待たずして、話を片っ端から自分の世界に当てはめて分類してしまう。
 
本当に部下や学生の成長を望むなら、相手の話を語られるのをじっくりと待ち、それをそのまま受容すること。
そして相手の世界に敬意をはらうことが、私たちには必要である。
 
それが脱わかった風おじさんへの扉となる…
 
んだゼ?
 

臨床とことば (朝日文庫)