女の多声性を記述するということ ー樫田那美紀『シスターフッドって呼べない』を読んでー
先日、大阪で開かれた文学フリーマーケットに足を運んだ。小さな長机が所せましと並び、売り手たちは机の向こう側からこちらの視線をとらえては「どうですか!」と声をかけてくる。おそらく相当な労力をかけたであろう作品群と、その書き手が一堂に会して並んでいるというのはなかなか妙なかんじだ。
浮足立つような賑やかさの中から私はなんとか目当てのブースを見つけ、このエッセイを購入した。
軽やかな文体なのにどこか不穏な雰囲気が漂っている。そんな印象を受けた。
そこには彼女の「女性嫌悪」について書かれたあったからだ。
「女」を他者化する自己、「女」に同化する自己
女性を劣った存在として、また性的客体として見なす「ミソジニー」から逃れられる者はおらず、それは男性に女性蔑視を、そして女性に自己嫌悪をもたらす。『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』の中でそう述べた上野千鶴子は、女性が自己嫌悪から逃れる術として、自分以外の女を「他者化」すること、女というカテゴリーからドロップアウトすることで女としての値踏みから逃れることを挙げた。
フェミニズムを学び、そして女として生きる上での生きづらさを語りだした樫田は、同時に「女」を恨み、「女」である自分を恨んできたことを敏感に感じるようになったという。
女友達から突然無視され、男としゃべるだけでぶりっことからかわれ、母から着たくないスカートをあてがわれ、その理不尽と違和感に、もがき苦しんでいる。
そこには、女性同士の「女性性」をめぐるヒエラルキー闘争での傷つきや、客体化される「女」への忌避がある。
metooをはじめとする最近の「被害性」をもとに連帯する女性たちのムーブメントからすれば、ここに書かれた女による「女」への恨みは不協和音でしかない。しかし樫田は「ふつうの女」を他者化し忌避してきた自身の「女ぎらいの歴史」をうねうねと語りだす。
女が、社会への違和感やおかしさを語り合うときの、女に対して向けている無批判な笑顔や、差別や不平等に怒っている女たちへの迷いのない賛意の表明の間には、もっともっと、ためらいが差しはさまれてもよいと思う。
女性の本当の連帯は、「傷つけ合い、見下し合い、競い合った過去」を全うに後悔した先にあると願いながら。
彼女の「女ぎらいの歴史」は、自分以外の女を他者化してドロップアウトしてきたことだけに留まらず、「女」に同化してきた、同化せざるを得なかった自分をも掘り起こす。「女」を他者化する自己と「女」に同化する自己。その狭間で彼女は大きくとり乱すのである。
それは例えば、クラスの女友だちから私服でプリクラを撮りに行こうと誘われ、悩みぬいた上で婦人服売り場のユニセックスな服装を買い込んだという中学校時代の狼狽に、ペニスのない、挿入される身体を有していることへの抵抗に、表れている。
特に私が「不穏」だと感じたのは『少女たちの階級闘争』と題された項で描かれたエピソードだ。小学校のクラスでは「日陰者」の立場にいた樫田は、たまに訪れる「目立つ」女の子との会話に異様に舞い上がり、"まるで国王をよいしょする臣下のようなスタンスで、へこへこしていた。"
自虐的な冗談でウケを狙い、流行っていた手紙交換に心血を注ぎ、媚びに媚びる。
派手で目立ち、強い彼女たちとつながっていなければ、という焦りに似た欲求はコントロールできない。
そして樫田はその欲求の背後には、目立つ女の子のグループに所属するSちゃんとのつながりを維持したいという願いがあったと続ける。本来さばさばした性格で気のおけない関係性を築いていたSちゃんとのつながりを保つために、彼女は媚を売り続けるのである。
「女らしい女」と「ドロップアウトした女」との間にある大きな境界線。それを越境するために、樫田は自尊心を削りながら一時的に「女らしい女」に同化する。
ただし「女らしい女」の世界線では「女らしさ」の競争が繰り広げられている。からかい、妬み、嫉み。その世界に参入したからこそ、そしてせざるを得なかったからこそ、彼女は「女ぎらい」を加速させたのかもしれない。社会に蔓延する女性を客体化し二流市民扱いする「女ぎらい」のまなざし、そのまなざしに貫かれた女性集団内における競争の果てに生じる「女ぎらい」。この後者の実態を書き記しているからこそ、このエッセイは「不穏」なのである。
不協和による受肉と連帯
さてこのエッセイ集は、「女」をめぐる出来事であるにもかかわらず、「反女性差別」という物語の説明様式では語り切れない事例を示している。「女の女ぎらい」という小さな物語は「反女性差別」という大きな物語と不協和さえ起こしている。しかし大きな物語と小さな物語が、同時に、樫田個人に内在している。
女性差別や不平等を訴えつつ、「女」を憎む。「女」を他者化しながら同化もする。
こうした同時性を、ウーマンリブの旗手・田中美津は「とり乱し」と呼んだ。そしてとり乱しの先にこそ真の自己肯定があるのであり、本当の「出会い」があるという。
とり乱した樫田の文章に抵抗感を抱く人はいるかもしれない。しかしその抵抗感とは別に、「これはわかる」というところが見つかる人は少なくないだろう。シンプルでクリアカットされた言葉にはとりつく島がないことが多い。一方、時に矛盾し、分裂するような自己をしぶとく紡いだ多声的な記述は血と肉を具え、読むものの記憶を開いていく。
その開かれた、共有された記憶を手掛かりに、真の「出会い」が立ち現れる。その「出会い」は「女」を大切に扱われるべき存在として位置づけてつながり合う生暖かい連帯ではない。
自分の中の傷つきだけでなく、不穏さや、時に抑圧性をもえぐりだし、えぐりだした内容物でつながるような。鋭く、それでいて深い安堵を感じるような連帯。底の底で結わえられたような連帯である。
私はこんな悠長に感想を書いていていいのか?
ところで彼女が懸念するように、このミソジニーの告白はアンチフェミニズムに攻撃の機会(「隙」)を与えることにつながりかねない。この記事を読んで「女は女同士で勝手に貶め合ってるんじゃないか」という意地悪な考えが湧いている人もいるかもしれない。
しかしこのとり乱しを受けて、私たちは(特に私たち男性は)、「何が彼女のとり乱しをもたらしているか」にまで目を向けなければならない。
「女ぎらい」を生んでいるのは何か。それをもとに女性内に競争をもたらしているのは何か。
「女ぎらい」の背景には女性を「選ばれる性」に貶めている社会構造がある。勝手に女性たちが憎しみあっているわけではない。そして私たち男性は、「女を獲得する男」をより優位な存在と置き、女の主体性を意図しない傾向にあるという点で、またその傾向をそのままにしているという点で、この社会の構造を温存に手を貸してしまっている。
(私はこんな悠長に女性の体験エッセイに感想を書いていていいのか?)
「男-女」に横たわる非対称から、社会にミソジニーが蔓延しているという事実から、私たちは議論を始めなければならない。そして女性を「選ばれる性」、男性を「獲得する性」と位置付けることは、私たち男性をも非人間化させている。常に「獲得する男」を演じるか目指し続けることは、男性の中に生じるゆらぎやためらいや弱さを棄却することにつながる。女性と付き合っていない異性愛男性は時に馬鹿にされ、からかわれ、排除されることさえある。
しかし。
そうは言っても。
「では女性との性的なつながりを求めることは止めよう」ということにはならない。
そこには男の「とり乱し」がある。女性を獲得することに躍起になることから解放されたいと願う自己と、女性とのつながりを求める自己。
この「そうは言っても」の中から、男性たちは何を立ち上げるのか。ミソジニーを緩和する術をどう見出していくのか。それは今後の実践の中で見出していくことになるだろう。
ここまで考えて、とりあえず終わりにしたい。おそらくとめどなく書き連ねていきそうな予感がある。思考がどんどん進み、そして氾濫していく。氾濫を起こす文章なのだ。
そんな文章に出会えたことに、感謝したいと思った。