フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

「女性に否定的なかかわりをされること」の解像度を上げる ―「負の性欲」言説への批判的応答―

0.はじめに
 現在「負の性欲」という言葉がTwitterで拡散されている。元になったTweetを見たところ「遺伝的に劣った男性に対して女性が抱く嫌悪感や拒否感」を意味するらしいが、科学的な裏付けは特にない。
 確かに「女性から否定的なかかわりをされる」という現象はぼくたち男性の身にしばしば起こる。しかし、ある場面では否定的なかかわりをされても、ある場面では否定的なかかわりをされない場合も当然ある。だとすれば、まるで女性が普遍的に「負の性欲」を持っていて一部の男性を常に嫌悪・拒否すると考えるのはいささか安易だろう。

 行動が起こるには、それが生じるまでの過程にいくつかの要素が介在している。例えば「朝パンを食べる」という行動について考えてみる。前日アルコールを飲み過ぎて胃もたれしていればなかなかパンを食べようとは思わない。家にパンがなければパンは食べられない。そもそもその地域にパンを食べる文化がなければパンを食べるという発想自体生じない。
 出来事、環境、社会・文化など多くの要素を経て、ようやく行動は生起する。それは女性の男性に対する否定的なかかわりも同様だ。だとすれば、まずぼくらがすべきは「負の性欲」という不明確な理屈に自分たちの不遇の説明を託すことではなく、否定的なかかわりが生起するまでの間に介在するものを言語化していくことだろう。
 そこで、本稿では男性の視点に重きを置きながら、「女性に否定的なかかわりをされる」という事態がなぜ起きるのかを可視化させていきたい。

※「負の性欲」言説が異性愛をもとに展開されていることを受けて、ここでは異性愛男性に焦点を当てて記述する。

1.他者との交流機会の格差
 まず、女性に否定的なかかわりをされるためには、女性と出会うという段階が必要になる。女性と交流がなければ否定されるということはそもそも起こらない。ただ、他の男性に比べて女性との交流機会が少なければ、まるで自分だけが避けられているような否定感を感じることがあるかもしれない。しかしその場合「否定的なかかわり」ではなく「交流機会の少なさ」を問題として俎上に上げるべきだろう。
 男性の中でも特に、学校や職場で隅に追いやられるタイプの周辺化された男性というのは、それだけで他者と交流する機会が少なくなる。女性を含め、他にも隅に追いやられた人もいるのだが、なぜか彼らは出会わない。周辺化されバラバラにされているのである。周辺化された女性も同様で、彼女たちは男性と出会わない。異性同士で交流するのはなぜか学校で中心にいるメンバーに限られている。
 ある種の権力構造が彼らをバラバラにしており、だとすれば、周辺化された男性は女性に拒否されているのではなくて、拒否される前から出会う機会から疎外されていると言ったほうが正確だろう。

2.距離を取られる
 出会った後に否定的なかかわりをされる場合を考えてみよう。まず「否定的なかかわり」と一口に言っても様々な様態があることを押さえておく必要がある。ここでは「距離を取られる」「拒否される」「被害を受ける」という3つに場合分けして考える。

2-1.「男性」という属性への忌避
 男性が何ら行動をとらずとも距離を置かれることがある。例えば相手の女性がそれ以前から何らかの理由で「男性」という存在に拒否感を持っている場合がある。性暴力や虐待、セクシュアルハラスメントなどの被害経験があるかもしれない。明確な被害経験はなくとも、社会に蔓延する女性蔑視的な風潮の影響もあるかもしれない。そうした背景をもとに、「男性」に対する警戒心や恐怖心ゆえに、その関わりを避けることがありうる。

2-2.関係性の文脈から考える
 また、いったいどういう場面で出会ったのかということも拒否を考えるうえで考慮にいれる必要がある。例えば合同コンパ、婚活パーティーなど、恋愛、とくに結婚を将来に見据えて出会った場合ならば、一部の男性から距離をとる女性はいるだろう。それを「負の性欲」と呼んでいるのだという批判が出てきそうだが、これはあくまで「結婚」という部分的な文脈の上で距離をとっているので、まるで女性が日常的に一部の男性を嫌悪しているかのような「負の性欲」という言葉は適切ではない。
(※結婚という文脈においても、外的な条件のみで男性を判断しない女性は少なくないということも補足しておく。)

2-3.お互いの持つ世界がずれている
 政治、思想、価値観が違うという場合もある。あまりに主義思想が異なれば、性別関係なく私たちは相手と距離を置くということを日常的に行っているだろう。
 また、学校というコミュニティで考えた場合、「スクールカースト」が女性との関係性を阻害することがある。仲間の男性のエピソードを紹介する。

大学1回生のとき同じクラスになったきれいな女性に話しかけたりしたんですけど、反応が微妙でした。後からぼくが「カースト」を認識できていなかったなと、気づいたんです。その女性はめっちゃモテる人で、そういう人にとって、服装もダサいし空気も読めないぼくに話しかけられるのは嫌だったのだと思います。だから話しかけても冷たい反応をされて、それからは話しかけませんでした。

 この女性は、服装やコミュニケーション能力、運動能力、友人の多さなどによって構成されたヒエラルキーを内面化し、そして周囲の目を意識して、彼と関わることを避けている。本来ならば、私たちは自由に関係性を築けるべきだが、学校という閉鎖的なコミュニティで作られた規範が邪魔をしている。もちろんこれは男-女、男-男、女-女の関係でも同様のことが起こる。

2-4.こちらの行動が問題を孕んでいる
 女性と交流した後、こちらのかかわり方に問題があったために相手が離れていったというケースはよく耳にするし、ぼくも経験がある。いくつか例をあげてみたい。

相手を侮っている
・物言いが高慢
・しったかぶり
・からかいのような発言をする
・「言ってることわかる?」などと確認する

性的な話題に触れる
・相手の身体を話題にする
・下ネタを会話に挟む

 こうした関わりによってすぐに距離を置かれるということは少ないかもしれない。しかし、ジワジワと相手に疲労を蓄積させ、結果相手が距離を置くということが起こる。
 そして相手に引かれた、冷たい態度をとられた、という場合に最もよく聞くのが、女性との関係をすぐに性的なものに持ち込もうとしたケースである。その多くは、例えばクラスメイトという関係から、上司部下という関係から、仕事仲間という関係から、その関係性の文脈を無視して、一足飛びに性的な関係へと発展させようとしてしまうことによって生じている。
 まず前提として、女性との関係性をすべて性的な関係に持っていく必要はない。それに、性的な関係でなくても女性との豊かな関係をつくり相手と充実した時間を過ごすことは可能だし、その関係はぼくらにとっても大きな財産になる。そのことを踏まえた上で、それでも相手と恋愛関係になりたいと思うのであれば以下のことに気を付ける必要がある。
 日常的な関係性から性的な関係へと発展するには、それ相応の「間」が存在する。相手に認識してもらうことから、会話を何度か重ねること、2人の時間を共有することなど、いくつかの段階を踏んだ先にようやく恋愛的な関係性に発展するということが起きうる。その「間」を考慮せずに性的な関係へと唐突に持ち込もうとしたときに、相手から距離を置かれることがよく起こる。なぜか。
 自分自身の体験を振り返るならば、クラスメイトに恋心を抱いたとき、まだ「間」を埋めるようなコミュニケーションをする前から、ぼくは頭の中で「間」を埋めるコミュニケーションを夢想していた。その夢想はとても楽しいもので、何度も何度も「相手とこんな会話をしている」ことを考えていたように思う。その結果、まだ付き合っていないということはわかっているが、相手とぼくの関係性は今後恋愛的ものへと発展していくような謎の自信を身に着けていた。(やばい。)
 実際にお互いの間でコミュニケーションがあったわけではないので、相手からすれば当然「クラスメイトの関係性」のままである。しかしぼくの頭の中では「性的な関係性」へと発展していたのである。この認知的な不一致が「一足飛び」なアプローチを生じさせ、相手を困惑させたのではないかと思う。

3.拒否される
 【2-4】で触れた、「日常的な関係性を性的な関係へと一足飛びに還元する」ことの結果として、男性は拙速なアプローチへと進むことがある。それは相手に受け入れられることはあるかもしれないが、たいていうまくいかず、結果的に断られることになる。そしてそのアプローチが、同意のない身体接触やストーキングなどの加害的な行為へと発展した場合、明確な拒否を示されるだろうし、時に「キモイ」という否定的な言葉を伴うこともある。

4.被害を受ける
 最後に女性からの被害についても検討したい。ぼくも特に親しくもない女子クラスメイトから身なりをからかわれた経験があるが、ルッキズムや男らしくない男を馬鹿にする風潮を内面化して、「キモイ」などと男性を虐げる女性は残念ながらいる。(もちろん女性だけに限らず男性にもいることは間違いない。)
 しかしそれは「負の性欲」などという生物学的な装いをもつ表現ではなく、明確に「加害」と言うべきだ。なぜなら、「遺伝的に劣っているから女性は加害をする」という理屈は、結局「加害されるほど劣っている自分が悪い」という自己否定的な論理を導いてしまう。また、「負の性欲」の論理は、加害者だけでなく不必要に女性全般にまでその責任を拡大させてしまう。加害は加害者に責任がある。どのような理由があろうと加害をしていい理由にはならないという当たり前の考えを、ぼくらは改めて持っておくべきだ。男性としての見栄も邪魔して、女性から受ける加害は加害として認識しづらい。しかし、もし何の脈略もなく暴言を吐かれたのであれば、「性的に嫌われている」などではなく「被害を受けた」と申し立てていいと思う。

 

5.まとめ
 本稿では、「女性から否定的なかかわりをされる」ことの解像度を上げ、「出会う機会が少ない」「距離を取られる」「拒否される」「被害を受ける」という4つの様態を論じた。現在Twitterで広がっている「負の性欲」にかんする議論は、この4つがすべてごちゃまぜになってなされている。特に、女性が男性を拒否する時と加害を加える時、どちらも「キモイ」という同じ言葉が使われることがあるため、余計に事態をややこしくしているのかもしれない。
 「負の性欲」言説は、「女性はこういうものだから自分は何をしても仕方ない」というある種の諦念を男性たちに与えている点、女性が「拒否」に至るまでの過程を不可視化させている点、負の性欲を向けられる自分が悪いという自虐を男性にもたらす点に問題がある。しかし、ここまで整理してきたことを踏まえれば、「女性からの否定的なかかわり」に対して私たち男性は、自らを諦めたり自虐したりするのではなく、女性との豊かなかかわりを築く余地と、加害に対して丁寧に批判していく余地が十分に残されている。
 ひとつは、「距離を置かれる」「拒否される」ことを避けるために、女性とのかかわり方を変化させることだ。侮らないこと、性的な関係性にすぐ還元しないことなどを考慮すれば、女性と豊かな関係性を築く可能性は開かれる。もうひとつは、きちんと被害を被害として受け止めることだ。そのことを自己卑下的に解釈する必要はない。その傷つきをうやむやにせず大切にすることが、私たちのためになっていく。

 「負の性欲」言説は「女性の否定的なかかわり」の原因をすべて女性の欲望というものに押し込めることで、ぼくら男性の溜飲をさげさせる機能を果たしているのかもしれない。しかし、もっと丁寧に自分の不遇に向き合い、正確に自分を慰めるべきだ。よくわからない言葉に巻き込まれて自分自身を諦めるようなことを、ぼくらはしなくていい。

ナラティヴコミュニティの意義・分類・進め方

ナラティヴコミュニティとは?

 語りによって構成され維持される共同体。「回復」「研究」「解放」などの大きな物語が軸にあり、またその中で新たな語りが創出される。

 

ナラティヴコミュニティの意義

■他者に関心を持つこと/持たれること

 物語に対する敬意から出発し、その世界に立ち会い、確かに見届ける。「わたし」は仲間たちに見届けられること、聞き届けられることで、安心感を得る。そこから学びや変化が立ち上がる。

 

■経験の共有

 生活する上での違和感や困難、苦労は、周囲の人に打ち明けても理解されなかったり、馬鹿にされたりすることがある。だから「わたし」の違和感・困難・苦労はすべて「なかったこと」にしないといけなくなる。それらを感じてしまう自分を否定しないといけないといけなくなる。「普通のフリ」をしないといけなくなる。

 こうして埋もれて未整理だった違和感・困難・苦労は、同様の違和感・困難・苦労を持つ者と出会うことで、ようやく触れることができるようになる。また仲間と共有することで「おかしなこと」ではなく普遍的に起こり得ること、と解釈しなおすことができる。これまで「自分が悪い」と済まされてきたものを、本当は何が問題なのかが丁寧に紐解けるようになってくる。これは仲間の「同質性」による。

 

■エピソードの誘発

 仲間の物語は「わたし」の記憶を呼び覚ます。見たくないからしまいこんでいた、でもどこか胸の奥で燻っていた経験。どうせ自分は駄目だという物語に支配されて忘れ去っていた経験。仲間の物語によって、新たな自己像が見出される。

 

■「わたし」の相対化

 「絶対にこうだ」「当たり前だ」と思っていることが他者にとってはそうではないことがある。「わたし」が何年も苦労していることを他者はさらりと受け流していることがある。凝り固まってしまった「わたし」の思考や価値観を、仲間の物語は「こう考えることもできるのか」とその幅を広げていく。これは仲間の「差異性」による。

 

■物語の再構成

 経験を共有することで向き合えるようになった物語。他者の物語によって誘発された物語。「わたし」を相対化する他者の物語。「わたし」はそれらを拾い集めながら、「わたし」の物語をもう一度紡ぎなおす。「わたし」を否定するものではない、周囲の人を傷つけるものでもない、新たな物語を再構成する。

 

ナラティヴコミュニティの分類

※対話の形式

・言いっぱなし聞きっぱなし:ある程度の時間一人だけで話し、それを順に回す形式。話している間他の参加者は言葉をさしはさんではならない。

・クロストーク:順番関係なく参加者が自由に言葉を交わす形式。話すことが苦手な人がなかなか語りの機会が得られないことも。

 

■セルフヘルプグループ

 似た境遇、属性の参加者同士で構成されるコミュニティ。言いっぱなし聞きっぱなしという対話形式がとられる。他者のまなざしを気にせず自分の語りに集中することでき、同時に聞き届けられもするメリットがある。これまで意識していなかった「わたし」の側面が表現される。

 

当事者研究

 ホワイトボードや模造紙を用いながら違和感・困難・苦労を視覚化し、研究する実践。どんな時に苦労が生じているのかを探ったり、苦労が生じているときどんな行動をとっているかをふりかえったりするなどして、苦労が発生するメカニズムを探求するプロセス。発生のメカニズムを踏まえた上でどのような行動をとればいいのか実験をしてみて、より良い対処を探るプロセスがある。

 ファシリテーターの他に書記がいる。言いっぱなし聞きっぱなしの後クロストークをすることが多い。似た境遇、属性の人が集まることもあれば、そうでないことも。

 

■哲学カフェ

 境遇や属性ではなく、テーマをもと参加者が集まるコミュニティ。哲学的なテーマについて参加者の意見を求めながらファシリテーターが深めていく。参加者の差異性が高いため、相対化が進みやすい。

 

■CR(コンシャスネス・レイジング 意識覚醒)

 女性解放運動の中で女性たちが取り入れた手法。「個人的なことは政治的なこと」を合言葉に個人的とらえられていた問題を参加者同士で共有することで普遍化させ、社会的な問題として位置づけた。埋没した経験を「意識化」する営みと言えるだろう。ファシリテーターは持ち回りでやるのが基本。

 

ナラティヴコミュニティの進行手順

①場のルールを確認する

②自己紹介、アイスブレイク、ストレッチ

③テーマを決める                             

・事前に

 …事前に話し合いやリーダーの独断で決めておく

・その場で

 …参加者から意見を聞きつつ決める

④ワークシートの記入

 対話を始める前にワークシートに自分の話したいことを書いておく手法もあり。なかなか普段言葉できないことなどをテーマにするときにはおすすめ。ない場合も多い。

⑤対話(クロストーク及び、言いっぱなし聞きっぱなし、あるいは組み合わせ)

⑥クローズ

 

※本記事は「ナラティヴコミュニティ」を提唱した野口裕二の『物語としてのケア』を参考に、西井の解釈を加えて書き示したものです。

女の多声性を記述するということ ー樫田那美紀『シスターフッドって呼べない』を読んでー

先日、大阪で開かれた文学フリーマーケットに足を運んだ。小さな長机が所せましと並び、売り手たちは机の向こう側からこちらの視線をとらえては「どうですか!」と声をかけてくる。おそらく相当な労力をかけたであろう作品群と、その書き手が一堂に会して並んでいるというのはなかなか妙なかんじだ。

浮足立つような賑やかさの中から私はなんとか目当てのブースを見つけ、このエッセイを購入した。

 

軽やかな文体なのにどこか不穏な雰囲気が漂っている。そんな印象を受けた。

そこには彼女の「女性嫌悪」について書かれたあったからだ。

 

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「女」を他者化する自己、「女」に同化する自己

 

女性を劣った存在として、また性的客体として見なす「ミソジニー」から逃れられる者はおらず、それは男性に女性蔑視を、そして女性に自己嫌悪をもたらす。『女ぎらい―ニッポンのミソジニー』の中でそう述べた上野千鶴子は、女性が自己嫌悪から逃れる術として、自分以外の女を「他者化」すること、女というカテゴリーからドロップアウトすることで女としての値踏みから逃れることを挙げた。

 

フェミニズムを学び、そして女として生きる上での生きづらさを語りだした樫田は、同時に「女」を恨み、「女」である自分を恨んできたことを敏感に感じるようになったという。

女友達から突然無視され、男としゃべるだけでぶりっことからかわれ、母から着たくないスカートをあてがわれ、その理不尽と違和感に、もがき苦しんでいる。

 

そこには、女性同士の「女性性」をめぐるヒエラルキー闘争での傷つきや、客体化される「女」への忌避がある。

metooをはじめとする最近の「被害性」をもとに連帯する女性たちのムーブメントからすれば、ここに書かれた女による「女」への恨みは不協和音でしかない。しかし樫田は「ふつうの女」を他者化し忌避してきた自身の「女ぎらいの歴史」をうねうねと語りだす。

 女が、社会への違和感やおかしさを語り合うときの、女に対して向けている無批判な笑顔や、差別や不平等に怒っている女たちへの迷いのない賛意の表明の間には、もっともっと、ためらいが差しはさまれてもよいと思う。

 

女性の本当の連帯は、「傷つけ合い、見下し合い、競い合った過去」を全うに後悔した先にあると願いながら。

 

彼女の「女ぎらいの歴史」は、自分以外の女を他者化してドロップアウトしてきたことだけに留まらず、「女」に同化してきた、同化せざるを得なかった自分をも掘り起こす。「女」を他者化する自己と「女」に同化する自己。その狭間で彼女は大きくとり乱すのである。

それは例えば、クラスの女友だちから私服でプリクラを撮りに行こうと誘われ、悩みぬいた上で婦人服売り場のユニセックスな服装を買い込んだという中学校時代の狼狽に、ペニスのない、挿入される身体を有していることへの抵抗に、表れている。

 

特に私が「不穏」だと感じたのは『少女たちの階級闘争』と題された項で描かれたエピソードだ。小学校のクラスでは「日陰者」の立場にいた樫田は、たまに訪れる「目立つ」女の子との会話に異様に舞い上がり、"まるで国王をよいしょする臣下のようなスタンスで、へこへこしていた。"

自虐的な冗談でウケを狙い、流行っていた手紙交換に心血を注ぎ、媚びに媚びる。

派手で目立ち、強い彼女たちとつながっていなければ、という焦りに似た欲求はコントロールできない。

そして樫田はその欲求の背後には、目立つ女の子のグループに所属するSちゃんとのつながりを維持したいという願いがあったと続ける。本来さばさばした性格で気のおけない関係性を築いていたSちゃんとのつながりを保つために、彼女は媚を売り続けるのである。

 

「女らしい女」と「ドロップアウトした女」との間にある大きな境界線。それを越境するために、樫田は自尊心を削りながら一時的に「女らしい女」に同化する。

ただし「女らしい女」の世界線では「女らしさ」の競争が繰り広げられている。からかい、妬み、嫉み。その世界に参入したからこそ、そしてせざるを得なかったからこそ、彼女は「女ぎらい」を加速させたのかもしれない。社会に蔓延する女性を客体化し二流市民扱いする「女ぎらい」のまなざし、そのまなざしに貫かれた女性集団内における競争の果てに生じる「女ぎらい」。この後者の実態を書き記しているからこそ、このエッセイは「不穏」なのである。

 

 

不協和による受肉と連帯

 

さてこのエッセイ集は、「女」をめぐる出来事であるにもかかわらず、「反女性差別」という物語の説明様式では語り切れない事例を示している。「女の女ぎらい」という小さな物語は「反女性差別」という大きな物語と不協和さえ起こしている。しかし大きな物語と小さな物語が、同時に、樫田個人に内在している。

女性差別や不平等を訴えつつ、「女」を憎む。「女」を他者化しながら同化もする。

こうした同時性を、ウーマンリブの旗手・田中美津は「とり乱し」と呼んだ。そしてとり乱しの先にこそ真の自己肯定があるのであり、本当の「出会い」があるという。

 

とり乱した樫田の文章に抵抗感を抱く人はいるかもしれない。しかしその抵抗感とは別に、「これはわかる」というところが見つかる人は少なくないだろう。シンプルでクリアカットされた言葉にはとりつく島がないことが多い。一方、時に矛盾し、分裂するような自己をしぶとく紡いだ多声的な記述は血と肉を具え、読むものの記憶を開いていく。

その開かれた、共有された記憶を手掛かりに、真の「出会い」が立ち現れる。その「出会い」は「女」を大切に扱われるべき存在として位置づけてつながり合う生暖かい連帯ではない。

自分の中の傷つきだけでなく、不穏さや、時に抑圧性をもえぐりだし、えぐりだした内容物でつながるような。鋭く、それでいて深い安堵を感じるような連帯。底の底で結わえられたような連帯である。

 

 

私はこんな悠長に感想を書いていていいのか?

 

ところで彼女が懸念するように、このミソジニーの告白はアンチフェミニズムに攻撃の機会(「隙」)を与えることにつながりかねない。この記事を読んで「女は女同士で勝手に貶め合ってるんじゃないか」という意地悪な考えが湧いている人もいるかもしれない。

しかしこのとり乱しを受けて、私たちは(特に私たち男性は)、「何が彼女のとり乱しをもたらしているか」にまで目を向けなければならない。

「女ぎらい」を生んでいるのは何か。それをもとに女性内に競争をもたらしているのは何か。

 

「女ぎらい」の背景には女性を「選ばれる性」に貶めている社会構造がある。勝手に女性たちが憎しみあっているわけではない。そして私たち男性は、「女を獲得する男」をより優位な存在と置き、女の主体性を意図しない傾向にあるという点で、またその傾向をそのままにしているという点で、この社会の構造を温存に手を貸してしまっている。

(私はこんな悠長に女性の体験エッセイに感想を書いていていいのか?)

 

「男-女」に横たわる非対称から、社会にミソジニーが蔓延しているという事実から、私たちは議論を始めなければならない。そして女性を「選ばれる性」、男性を「獲得する性」と位置付けることは、私たち男性をも非人間化させている。常に「獲得する男」を演じるか目指し続けることは、男性の中に生じるゆらぎやためらいや弱さを棄却することにつながる。女性と付き合っていない異性愛男性は時に馬鹿にされ、からかわれ、排除されることさえある。

 

しかし。

そうは言っても。

「では女性との性的なつながりを求めることは止めよう」ということにはならない。

そこには男の「とり乱し」がある。女性を獲得することに躍起になることから解放されたいと願う自己と、女性とのつながりを求める自己。

この「そうは言っても」の中から、男性たちは何を立ち上げるのか。ミソジニーを緩和する術をどう見出していくのか。それは今後の実践の中で見出していくことになるだろう。

 

ここまで考えて、とりあえず終わりにしたい。おそらくとめどなく書き連ねていきそうな予感がある。思考がどんどん進み、そして氾濫していく。氾濫を起こす文章なのだ。

 

そんな文章に出会えたことに、感謝したいと思った。

「モテる」の再考〜「イケメンだから許される」は本当に「イケメン」だから「許されて」いるのか?~

主催している男性の語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」(以下、非モテ研)で来週行われるイベントに向けた思いのようなものを書いておこうと思う。
https://kokucheese.com/event/index/566119/

これまで非モテ研は「モテ」を目指すものではないと謳ってきた。
ではなくて、「モテたい」と思う気持ちに焦点を当て、なぜ過度に「モテたい」と思うのか、その気持ちが高じて苦しくなってくるのかを当事者研究という手法を用いながら仲間たちと探求してきた。
またその結果として、「非モテ」男性にはいじめやからかい、パワハラ、無視などの被害を受け、集団から疎外された経験があったことがわかってきたため、互いにケアし合うグループとしても発展してきた。
とは言うものの、非モテ研は恋人ができることを否定する立場はとっていない。リア充爆発しろとは思っていない。
仲間の中にパートナーのいる人もいるし、恋をすることで幸せになったという人もいる。想いを寄せる人と付き合ってみたい、モテてみたいという気持ちは、否定されるべきではないだろう。

さて、しかし問題はその「モテ」というものの中身である。
本論では、男性たちが想定する「モテ」を批判的に論じ、次回のイベント「MAを学んでモテを目指そう!」の意義を最終的に提示したい。

非モテ」はどの性別にもまたがる現象ではあるが、私自身がシス・ヘテロ男性当事者であるという理由から、ここでは「非モテ男性」は基本的にシス・ヘテロ男性を想定する。ただ男性自認のある方に当てはまることも多いかもしれない。


「モテる」は何を指しているのか
私たちが「モテる」と聞いてイメージするものはどういったことだろう。
複数回交際したことがある、同時に複数の恋愛関係がある、告白されることが多い、セックスした回数が多い、といったようなことだろうか。
社会的な規範、特に男性規範の中で性的な経験が豊富であることは価値のあることだと見なされ、男性たちにとってこれらの「状態」にいることは理想であると位置付けられる。

しかし、実際私が「モテる男」という「個人」を連想するとき、羨ましさとは別に怒りや憎しみのような感情が渦巻く。

彼らに対するこうした負のイメージは何によってもたらされているのか。

電波男』を著した本田透は、「モテる男」について、女性を独占する存在として描き、怒りをぶつけている。(ただ、この怒りは女性を記号化する女性蔑視的なものであることを付記しておく。)
しかし私の場合、もっと直接的に私を含む周囲の人間をからかい、揶揄する存在としてイメージされる。つまり、異性との関係が密であるという要素に加え、権力性や加害性を持っているという要素を「モテる男」に見ている。

私が想定する「モテる男」(≒集団の中で権力を持つ男)について、社会学者である貴戸理恵の著書『コミュ障の社会学』に、それを言い当てたエピソードが書かれている。少し長いが引用する。

クラスにAさんという男性学生がいた。他の学生たちからは、「Aはこのクラスでの発言力が大きい」と言われていた。…Aさんはよく喋った。教師の言うことを茶化してみんなを笑わせる。女の子をからかってちょっと怒らせてみたりする。されたほうは、笑いながら「もーうるさい!」などと言い、それを見たみんなが笑う。…「コミュ力が高い」人というのは、こちらが相手の「ノリ」を尊重せざるを得ないような「空気」をいつの間にか教室に充満させるのがうまい。…そのうちに雲行きはあやしくなっていく。Aさんは、「美人がいれば学校も楽しいのになー」などと言う。「夜道を歩くのが怖い」と言った女の子に、「おまえは心配いらないだろ」と絡んだりする。さすがに私は介入する。…それが、「おー、先生に怒られちゃった」という笑いになる。「いやー俺じゃないっすよ。言ったのはコイツ」とそばにいた別の男の子を指して、また笑いにもっていく。言われた女の子も、他の女の子たちも、「コイツ」と言われた男の子も笑っている。これは何なのだろう。

Aさんの発言は言うまでもなく女性差別である。
クラスのような密室的な空間の中では、コミュニケーション能力や容姿、運動能力などの基準によってヒエラルキーが生じる。
Aさんのようなヒエラルキーの上位にいる男性はその能力と覇権を用いながら、他者をからかい、同時に指摘を上手くすり抜けて自身の加害性を隠蔽する。
さらに注目すべきは他の生徒たちである。差別的発言を受けた女子生徒までもが、Aさんの作り出した「空気」に乗って笑っている。
まるでAさんは何をしてもいい存在のように見えるが、この状況を単純に彼のふるまいが「許されている」ととらえるのは早計だろう。
なぜなら、Aさんに揶揄された女性や、いじられた男子生徒が「空気を読まず」彼に歯向かった場合、その集団から排除される恐れがあるからだ。彼のふるまいに傷ついたとしても上手くかわさなければならないのだ。

また被害を受けた側が権力勾配を内面化して加害者の主張を正しいと思い、からかわれている状態を無自覚に正当化してしまうことがある。
以前私は勤めていた企業で上司から深刻なパワハラ被害を受けていたが、受けていた当時、加害をする上司ではなく、仕事のできない自分が悪いと思いこんでいた。
そして権力を持つ彼にいかに気に入られるかばかりを気にして、彼の言う冗談にたいしておおげさに笑い、からかわれても笑顔で応えていた。しかも無理にそうしていたわけではなく、からかわれることに喜びさえ感じていた。
外面的に私と上司の関係は良好に見えていたかもしれないが、私は無自覚的に、そして確実に傷ついていった。

権力構造の只中にいる場合、権力を持つ者が正しさをつくり、抑圧される者はそれに従わざるを得ない、もしくは無自覚に従う構図ができあがる。
私の「モテる男」に対する怒りは、彼らからのからかいによる傷つきと、彼らの持つ権力性ゆえに、傷つきを言葉にすることを封じられたことに端を発しているではないかと考えている。


抑圧されていたにもかかわらず。
さて、ここまで権力を持つ男性を批判的に論じてきた。それは権力を持たず集団の中で周辺化されやすい「非モテ」男性には縁遠い話に読めるかもしれない。
もちろん「モテる男」に権力を付与する社会規範は解体されるべきだろう。
だが私は「ほら、やっぱりモテる男はクソじゃないか、徹底的にぶっ潰したほうがいい」ということだけを主張したい訳ではない。
事態はそう単純ではない。

問題は、権力を盾に女性を悪しざまに扱い、いい気になっている男性に怒りを感じていた半面、私は彼を「モテる男」だと認識し、憧れのような感情も持っていたということだ。
非モテ男性が「モテ」を志向した時、彼をロールモデルにしてしまい、その差別的な関わりを女性と関わる際のお手本として学習してしまう危険性に着目しなければならない。

周囲からからかわれることが多く、時にいじめられることもあった中学・高校を経て、大学進学と同時にいじられキャラを脱した私は、今度は周囲をからかう側に回るようになった。
あろうことかサークルの後輩にセクハラ発言浴びせるようになり、しかもそうしたふるまいができることを「かっこいい」と思っていた。

集団の中で周辺に追いやられた男性が、その集団内の権力構造によって抑圧されているにもかかわらず、同時に権力を志向する。

このメカニズムが具現化した典型として「恋愛工学」がある。
恋愛工学はある種のナンパ術であり、女性と親密な関係性が築けず自信を失った男性たちの関心を集めている。
しかし恋愛工学には女性差別的な思想が通底している。女性を下に見てコントロール化に置こうとする姿勢が端々に表れている。
哲学者の森岡正博は論文『 「恋愛工学」はなぜ危険なのか 』の中でその事実を指摘し痛烈に批判している。
http://www.lifestudies.org/press/rls0801.pdf

非モテ男性も権力構造にからめとられ、時にそれを志向する可能性があり、その点で権力性と無関係とは言えないだろう。

ここでタイトルに記載した「イケメンだから許される」というフレーズについて考えたとき、字面通りの意味とは別の読み取り方が立ち現れる。
「イケメン」と言われる男性の層と権力性に裏打ちされた「モテる男」の層は少なからず重なる。集団内では容姿の優れた者が人間として優れていると見なされうるからだ。(だからといってイケメンが皆、性差別的だという訳ではない。)
そしてここまで論じてきたように、権力性に裏打ちされた「モテる男」は、差別的なかかわりをしたとしても、その権力性ゆえにその行為は許容される。
正確に言えば、権力性をもって被害者を黙らせることができる。
その一方で、権力を持たない男性が権力を持つ男性に憧れ、同じように差別的なかかわりをした場合、もちろん糾弾されることになる。
結果として、権力を持たない男性は許されず、権力を持つ男は許される(ように見える)。
「イケメンだから許される」ということの内実はこのようなことではないだろうか。


新しい「モテ」へ
だからと言って、糾弾されないために権力を持て、と男性たちに言えないし、言うべきではない。

学びを通して私は自身の加害性を内省し、過去セクハラ発言を浴びせてしまった後輩のもとを訪れ謝罪した。
彼女は当時は笑顔でやり過ごしてはいたが、本当に嫌だったと教えてくれた。

だとすれば、すべての男性たちは権力性を帯びた「モテ」を決して目指すべきではない。からかい、揶揄、性差別的な関わりを捨て、女性に苦痛やためらいや我慢を抱かせない、オルタナティブな「モテ」を構成していく必要がある。

例えば先述した森岡は『草食系男子の恋愛学』の中で他者理解に重きをおいた恋愛のあり方を書いている。
また、何が相手の尊厳を傷つけることになるのか、どうすれば対等かつ友好的な関係を築けるのか、その具体的な知を身につける必要があると私は考えている。
何がセクハラになるか分からないと言って閉じこもるのでも、女性への恨みをため込むのでもない。
積極的に他者との対等な関係を築いていく方法はないか。
マイクロアグレッション(MA)という概念は、その鍵になるのではないかと思う。

権力性に裏打ちされた「モテ」から、対等な関係性を目指す「モテ」へ。
今回のワークショップはその第一歩になればいいなと思う。
興味のある方はぜひご参加ください。

三重ダルク、探訪。「生きること」を支援すること。

男性同士の語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」を開いて1年が経つ。
先日ありがたいことに、グループでの活動について『現代思想』2月号に寄稿させていただいた。
その中で私は、仲間たちが抱いてきた性的な苦悩やそれが高じて生じる女性への過剰な執着についてと、その背景にいじめやパワハラなどの被害経験、そこから生じた劣等感があるという旨のことを書いた。
また最近自分や仲間の経験をより細かく見ていくと、例えばクラスメイトからのからかいや、年収や容姿だけで判断するような記号的なまなざしといったような、加害とは明確には言えない攻撃による微細な傷つきが蓄積しており、それも男性の負の部分と関連していると考えるようになった。
 
性的な苦悩や執着はあくまで表層であり、本質的な問題はもっと別のところにあるのではないかというこの発想は、実は薬物依存当事者の方々が積み上げてきた知に大きな影響を受けている。
 
薬物依存の話題が近頃メディアで大きく取り扱われている。
芸能界の大物の薬物使用スキャンダルは今に始まったことではないが、その報道内容は「ダメ、ゼッタイ」に象徴される厳罰主義だけではなく、薬物依存を依存症という「病」と位置づけ治療を促す意見も増えてきている。
 
しかしこうした治療論よりもさらに一歩進んだ議論を、薬物依存当事者活動「ダルク」は進めている。
彼らは当事者同士で主体的に回復の道筋を歩み、その過程で、少なくないメンバーが知的障害や性的被害、社会的排除など別種の問題を抱えていること、その対処として薬物を使用していることを発見してきた。
治療によって薬物使用を止めても、また別の生きづらさが生じてくる可能性がある、と。
 
非モテ男性の問題でも同じことが言えて、たとえ恋人ができて「非モテ」と言われる状態から脱したとしても、またグループでの対話を通して苦悩が解消されたとしても、彼の抱えるほかの問題は温存される可能性がある。
だとすれば、ただその表層的な行動や苦悩へのアプローチだけではなく包括的な支援が必要になるのではないか。
その手掛かりを見つけるために(というタテマエで)、先日三重ダルクへフィールドワークへ行ってきた。
 

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事務所に掲示されていた12ステップルール
1985年にスタートした薬物依存回復施設ダルクは現在全国に90あり、それぞれが独立して運営されている。
メンバーはダルクに入居し、12ステップに則ったミーティングに加え、ソーシャルスキルやリビングスキルの習得、ヨガやものづくり、就労訓練などのプログラムに参加する。
三重ダルクも同様の形態で運営されていたが、本で書かれている内容とは明らかに異質な部分があった。
なぜか三重ダルクにはライブハウスがあった。
 

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施設長の市川さん、ダルクメンバーとなぜかセッション
薬物依存者が地下のライブハウスでギターを弾きならしドラムを叩く。かなりロックな状況だ。
見学させてもらっているとなぜかベースを弾くことになり、施設長の市川さんが電話を入れると他のメンバーも加わっていつのまにやらセッションが始まった。
舞台照明も灯り、マイクも用意され、しまいにはライブのような雰囲気に。十分に楽しんで、私たちはスタジオを後にした。
 
「ナラティブ(語り)だけでは回復しない場合がある」と市川さんが教えてくれた。
言語的な能力が低い人にとってミーティングはあまり効果がないということももちろんある。
ただそれだけではなくて、理不尽な暴力や社会的抑圧にさらされ厳しい生活を余儀なくされた当事者たちにとって、何よりもまず「生きること」が必要なのだと私には聞こえた。
例えば、畑で野菜を作ること。仲間と試行錯誤して働くこと。安心できる空間で暮らすこと。そして友人と遊ぶこと。
ダルクとはこうした本当に根本的な「生きること」を共同構築していく場なのだと感じた。
 

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三重ダルクの運営する弁当屋
もう一つ、学びになったのがダルクスタッフの持つ専門性である。
 
メンバーたちはプログラムを通して自身の「生きること」を構築し、同時に薬もやめていく。その営みは主体的に行われるが、と言ってスタッフは何もしないわけではない。
まず回復の場を設けるということが必要になる。
三重ダルクは20年前小さな美容院を改装してスタートし、今以上に薬物依存者の回復に理解の得られなかった当時、彼らはわずかな資金で共同生活を営んでいたという。
現在はミーティングやヨガなどのプログラムを行う事務所のほかに、入居住宅や畑、弁当屋、ライブハウスなど様々な物件を確保している。
 

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美容院を改装してつくられた初代事務所
また、そうした回復の場の中から、その人に適するであろうものを判断するという役割をスタッフは担っている。
そして判断した後は、個人のやりたいままに任せ、もしリスクが生じそうなら介入する。
これらの判断や介入は一朝一夕で身につくことはない、まぎれもなく「専門的」であり、そこにはパワーもある。
しかしその専門性は、自身の経験や、ほかの仲間と長く関わる中で積み上げられたものであり、治療室や面接室の中だけでしか当事者と関わらない精神科医臨床心理士の持つ専門性とは一線を画している。
「生きること」を重視する包括的なアプローチも、科学的な知ではなく経験知から紡ぎだされている。(ライブハウスでギターを弾くことが依存者の回復につながると主張するいい意味でヤバい研究者はおそらく今のところいないだろう。)
 
「当事者目線で運動や回復を進めていく」という、これから実践を進めていくうえで重要な姿勢を肌で学んだフィールドワークになった。
市川さん、その他のダルクメンバー、スタッフの方、本当にありがとうございました。
 

「自己肯定感」という言葉がいまいちよくわからないので再考してみた。

「自己肯定感」。
昔からある言葉だがここ最近特に耳にすることが多くなった。
何か問題がありそうだったらとりあえず「自己肯定感が低いんだよね~」と言って済ませてしまえるような、悪用の気配さえある。
 
こうした「自己肯定感」の氾濫の中で、改めて考えをまとめておきたい。
 
心理の分野では、社会的評価や他者との比較によって変動する「社会的自己肯定感」と、自分の否定的な部分も含めてあるがままでいいと感じる「基本的自己肯定感」の2つ(他に呼び名が色々あるが)があるとされている。
社会的自己肯定感ばかりが重視されると、収入、既婚/未婚、学歴、コミュニケーション能力など、高いほどいいとされる基準をめぐって比較と線引きが起き、身体的要因や社会的要因などが原因でこうした基準を満たせない人(障害者や女性など)はどんどん苦しくなってゆく。
マジョリティと呼ばれる人たちも、常に評価のまなざしにさらされ生きづらさを感じていく。なので基本的自己肯定感を向上することが重要になってきている…。
ここまでが自己肯定感についてよく語られる議論だろう。
 
問題は
「じゃあどうやって基本的自己肯定感を上げればいいんすか??」
ということなんだけれど、ここがまだ不透明なんですよ、ええ。
 
しかしそもそも決まった「基本的自己肯定感のあげ方」というのは本来ないのかもしれない。
だから「居場所を見つけよう」とか「やりたいことを見つけよう」という抽象的な提案で止まる。
 
 
むしろそんな固定的なマニュアルが存在していれば、「あの人はこのマニュアル通りのことができていないから自己肯定感が低い」という新たな比較と線引きの暴力を生み出してしまうだろう。
 
ならば、そうした抽象的な表現で表すよりも「私はこうして自己肯定感があがった」という具体的な事例を数多く蓄積していくことが有効ではないか。
その事例たちの中から「私はこれが使えそう」というものを見つけて試してみる。上手くいかなくても気にしない。「私には合わなかっただけ」とどんどん別のものを試してみる。上手くいけばそのことを発信し、先行研究として蓄積する。
※これはべてるの家で実践されている「当事者研究」の考え方を参考にしている。
 
ところで、基本的自己肯定感の達成で難しいのは、自分の「否定的」なところも受け止めることにある。
否定を肯定するとはどういうことなのか?
 
当事者研究の分野には「秩序を与える」という言葉がある。
周囲の人たちや社会的な規範からズレている身体や価値観を持つ人たちは、そのズレを理由に疎外され、自己否定を進めていく。
そしてそのズレは「オカシイこと」として外に出されることもなく秘匿され、延々と自分を傷つけ続ける。
しかし、同じズレを持つ人が集まり、そのズレを公開し共有すると、自分だけがオカシイわけではなかったことに気付いていく。
例えば「集団内でどのようにして会話が進められているのかわからない」という、いわゆる「空気の読めなさ」。
それは社会的には否定的に見られるのだが、同じ経験をした者同士で共有されることでことで秩序が与えられる。そして、空気が読めないという経験は、いつしか「オカシイこと」ではなく、会話をめぐって「人々が経験することの1つ」でしかないことに気付く。
こうして相対化を進めることで、「否定的」だと思われていることも受け止めることが可能になる。
 
以上のように、他者の事例を参照し自分も蓄積する、自分のズレを他者と共有し秩序化する、ということが基本的自己肯定感の向上の一助になるかもしれない。
 
ここまで書き進めて気付いたが、どうも妙なことが起きている。
あるがままの自分自身を受け止める基本的自己肯定感は、他者に自分を委ねるのではなく、「居場所を見つける」「やりたいことを見つける」といったような自己の能動的なアクションによってつかみ取れるものだと、私はとらえていた。
しかしここまで進めた考えに照らせば、周囲の人たちの存在なくしては基本的自己肯定感は得られないものなのかもしれない。
 
こうして基本的自己肯定感を上げた後、気を付けなければならないのは一度きりでその営みを止めてしまわないことである。
社会の中に潜む多数派の規範は、何度も、そしてあらゆる形で私たちに迫ってくる。もう大丈夫と思っても、いつの間にかまた劣等感や疎外感にさいなまれる事態が起こるかもしれない。
 
「回復とは回復し続けること」という言葉があるが、同じように本当の自己肯定も一度きりではなく「自己肯定し続けること」なのだろう。
逆に一回きりで完結する自己肯定は危うい。
それは、私は自己肯定感を上げることで「こちら側」に来れたからもう大丈夫だ、偽の安心感を与える比較と線引きの暴力を近づけてしまう。
 
他者と共に基本的自己肯定感を立ち上げ続けること。
 
口にすれば何かがしっくりきたように感じてしまう魔法の言葉「自己肯定感」。
しかしその内実はなかなかに奥深い。

インポテンツ、棺桶、チキンラーメン ~焦点化されなかった東日本大震災〜

「おにーちゃんにだけ言うけどね、俺ね、今70(歳)でしょ。で、震災から6年か。6年間、64(歳)からもう1回もたってないんだよ。」
 
——え、たつ…?
 
「下半身のあれね、勃たなくなってね、はっはっは(笑)」
 
——震災の影響で、ってことですか?
 
「それはわからんけどね。年かもしらんし。
まあもう使うこともないけどね(笑)」
 
 
2017年、当時仙台のある大学に、ボランティア学生支援スタッフとして雇われていた私は、学生とともに東日本大震災の被災地各地を回っていた。
これは岩手県陸前高田市の復興住宅の集会室で、学生と企画したカフェに訪れた住民の男性から聞いた話だ。
 
彼は自分の男性器が勃起しなくなったことを、笑いながら、そして少し寂しそうに語った。
私が男で、しかも学生ではなく職員という立場だからこそ話してくれたのかもしれない。
(それとももしかしたらそういう話を言いやすい空気を私は醸し出しているのだろうか?)
 
「おにーちゃんにだけ」というのがどれだけ本当か分からないが、インポテンツ(勃起不全)がレッテルを貼られて語られる風潮を考えれば、なかなか人にさらけ出せる内容ではないだろう。
それがふと、たまたま復興住宅の集会場を訪れた若い男に、ぽろっとこぼれ落ちた。
 
 
石巻のある小さな仮設住宅にもよく訪れた。
住民交流に熱心な自治会長さんと元気なおばちゃんたちが、いつも私たちをあたたかく迎えてくれた。
その中の1人のおばちゃんが、手芸をしながら震災当日のことを教えてくれた。
 
「3月11日の前の日、だから10日ですね。お父さんが亡くなって。
地震が来たときちょうどお棺を運んでるときだったんですよ。
それで大きく揺れたでしょ。棺桶が川に落ちてしまって、途中の木に挟まったんです。
下の方だから取りに行くこともできなくなって。
 
そうしたら、その後自衛隊の人が来て、『誰か落ちたんですか⁉⁉』って。
『あ、お父さんが…』って言ったら、拾いに行ってくださったんですけど、自衛隊の人も『あれ?棺桶?』って感じでね…。
なんかこっちも気まずくて…。
これ笑っちゃいけないんですけどね。なんかちょっと…やっぱり可笑しいですよね(笑)」
 
2人で笑っていいのやら神妙な顔をすればいいのやら、妙な空気になったのを覚えている。
 
 
そのような被災地を回る仕事をしてます、とある日、行きつけの美容院のおにいさんに話すと、普段寡黙なおにいさんが震災当時のことをぽつぽつと語ってくれた。
 
「僕は仙台市内ですからね、揺れはしましたけど、そんな危険はなかったんで危機感も薄かったですねー。
停電もしばらくしたら回復しましたし。
あ、でも食べ物は困りましたね。みんな買われてましたからね。
まあこのままだと困るなーってことで、ふらふら食べ物を探すために散歩に出たんです。」
 
——なんか、ほんま危機感ないかんじですね(笑)
 
「だいたいみんなそんな感じでしたよ。なんとかなるかーって感じで。
2、3時間歩いて店まわったんですけど、なかなか見つからなくて、家に戻り始めたんですけど、家からすぐのところに古い雑貨屋を見つけたんです。
それまでずっと暮らしてきて全然気付かなかったんですけど、あったんですね。
 
何かあるんじゃないかと思って、いろいろ物色してたら、チキンラーメンがあって。
店のおばちゃんに『おばちゃんこれもっとある?』って聞いたら他の在庫もあって。
おばちゃんもそれ食べるからって言うんで、半分だけ買わせてもらって、6パックくらいだったかな。それで帰ってきたんですよ。
 
その後よくパッケージ見たら、賞味期限1年くらい過ぎてたんですよ(笑) やばいですよね(笑)」
 
なんだかんだ食事はどうにかなったという。
 
 
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震災当時石巻市に暮らしていた友人から、津波で自分のペットが死んだことを震災後2年経ってからようやく語り出せた、という話を聞いた。
家族や近しい人を亡くした人がいる中で、ペットの死はなかなか口にできなかったそうだ。
 
被災地では、被害状況の差によって、住民間に溝が生まれたという。
「おたくはまだ家残ってるしね。」といった具合に。彼女もその溝に苦しんだ。
同じ東北に住む人々の中に、「被災者」という枠がいつの間にか形成され、その線引きをめぐって様々な葛藤が生まれた。
 
そしてその線引きに、東北の外部にいる私たちも加担している気がしてならない。
 
現地を訪れた人はより「被災地的」なものを見たがり、ボランティアは現地の人により「被災者的」な話を聞きたがる。
外部者は東北により「被災」を求め、自分の中にある「被災」のイメージを押し付けていった。
メディアで1年に1回取り上げられる東日本大震災特集は、重いテーマばかり抽出して放映する。
学生時代ボランティアとして訪れた私も、住民の方から深刻な話を聞いたとき、どこかでそれを誇っていたところがあった。
 
外部者が「被災地は可哀相な土地」だと位置づけているから、悲劇のストーリーばかりが取り上げられるのか。
それとも人間にはそもそも悲劇を求めてしまう習性があり、そのせいで「被災地は可哀相な土地」と位置づけられるのか。
どちらが先かはわからない。
 
しかし、どちらにしろ、こうした外部のまなざしは、現地の人に無用な圧力と分断を生み出し、
そして何より東北で起こったことの全体像をうやむやにしてしまう。
私たちは「東日本大震災」の局所的な部分しか把握できなくなってしまう。
 
それが東日本大震災や東北を「知った」ことになるだろうか?
知らないままに「忘れない」なんてことはありえるだろうか?
(そもそも自分を「外部」と言っていること自体が、分断を起こしていないだろうか?)
 
深刻な話だけが東日本大震災や東北の現状を表すのではない。
勃たなくなった男性器も、川に落ちた棺桶も、賞味期限の切れたチキンラーメンも、東日本大震災の1つだ。
 
外部に住む私たちは、現地で見たこと聴いたことをひとつひとつ刻み続けていく。
彼らの顔を思い出しながら、ふとそんなことを考えたりする。