フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

「自己肯定感」という言葉がいまいちよくわからないので再考してみた。

「自己肯定感」。
昔からある言葉だがここ最近特に耳にすることが多くなった。
何か問題がありそうだったらとりあえず「自己肯定感が低いんだよね~」と言って済ませてしまえるような、悪用の気配さえある。
 
こうした「自己肯定感」の氾濫の中で、改めて考えをまとめておきたい。
 
心理の分野では、社会的評価や他者との比較によって変動する「社会的自己肯定感」と、自分の否定的な部分も含めてあるがままでいいと感じる「基本的自己肯定感」の2つ(他に呼び名が色々あるが)があるとされている。
社会的自己肯定感ばかりが重視されると、収入、既婚/未婚、学歴、コミュニケーション能力など、高いほどいいとされる基準をめぐって比較と線引きが起き、身体的要因や社会的要因などが原因でこうした基準を満たせない人(障害者や女性など)はどんどん苦しくなってゆく。
マジョリティと呼ばれる人たちも、常に評価のまなざしにさらされ生きづらさを感じていく。なので基本的自己肯定感を向上することが重要になってきている…。
ここまでが自己肯定感についてよく語られる議論だろう。
 
問題は
「じゃあどうやって基本的自己肯定感を上げればいいんすか??」
ということなんだけれど、ここがまだ不透明なんですよ、ええ。
 
しかしそもそも決まった「基本的自己肯定感のあげ方」というのは本来ないのかもしれない。
だから「居場所を見つけよう」とか「やりたいことを見つけよう」という抽象的な提案で止まる。
 
 
むしろそんな固定的なマニュアルが存在していれば、「あの人はこのマニュアル通りのことができていないから自己肯定感が低い」という新たな比較と線引きの暴力を生み出してしまうだろう。
 
ならば、そうした抽象的な表現で表すよりも「私はこうして自己肯定感があがった」という具体的な事例を数多く蓄積していくことが有効ではないか。
その事例たちの中から「私はこれが使えそう」というものを見つけて試してみる。上手くいかなくても気にしない。「私には合わなかっただけ」とどんどん別のものを試してみる。上手くいけばそのことを発信し、先行研究として蓄積する。
※これはべてるの家で実践されている「当事者研究」の考え方を参考にしている。
 
ところで、基本的自己肯定感の達成で難しいのは、自分の「否定的」なところも受け止めることにある。
否定を肯定するとはどういうことなのか?
 
当事者研究の分野には「秩序を与える」という言葉がある。
周囲の人たちや社会的な規範からズレている身体や価値観を持つ人たちは、そのズレを理由に疎外され、自己否定を進めていく。
そしてそのズレは「オカシイこと」として外に出されることもなく秘匿され、延々と自分を傷つけ続ける。
しかし、同じズレを持つ人が集まり、そのズレを公開し共有すると、自分だけがオカシイわけではなかったことに気付いていく。
例えば「集団内でどのようにして会話が進められているのかわからない」という、いわゆる「空気の読めなさ」。
それは社会的には否定的に見られるのだが、同じ経験をした者同士で共有されることでことで秩序が与えられる。そして、空気が読めないという経験は、いつしか「オカシイこと」ではなく、会話をめぐって「人々が経験することの1つ」でしかないことに気付く。
こうして相対化を進めることで、「否定的」だと思われていることも受け止めることが可能になる。
 
以上のように、他者の事例を参照し自分も蓄積する、自分のズレを他者と共有し秩序化する、ということが基本的自己肯定感の向上の一助になるかもしれない。
 
ここまで書き進めて気付いたが、どうも妙なことが起きている。
あるがままの自分自身を受け止める基本的自己肯定感は、他者に自分を委ねるのではなく、「居場所を見つける」「やりたいことを見つける」といったような自己の能動的なアクションによってつかみ取れるものだと、私はとらえていた。
しかしここまで進めた考えに照らせば、周囲の人たちの存在なくしては基本的自己肯定感は得られないものなのかもしれない。
 
こうして基本的自己肯定感を上げた後、気を付けなければならないのは一度きりでその営みを止めてしまわないことである。
社会の中に潜む多数派の規範は、何度も、そしてあらゆる形で私たちに迫ってくる。もう大丈夫と思っても、いつの間にかまた劣等感や疎外感にさいなまれる事態が起こるかもしれない。
 
「回復とは回復し続けること」という言葉があるが、同じように本当の自己肯定も一度きりではなく「自己肯定し続けること」なのだろう。
逆に一回きりで完結する自己肯定は危うい。
それは、私は自己肯定感を上げることで「こちら側」に来れたからもう大丈夫だ、偽の安心感を与える比較と線引きの暴力を近づけてしまう。
 
他者と共に基本的自己肯定感を立ち上げ続けること。
 
口にすれば何かがしっくりきたように感じてしまう魔法の言葉「自己肯定感」。
しかしその内実はなかなかに奥深い。