フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ぼくらはサイヤ人ではない。地球人だ。

先日仙台市内で行われた地方創生のイベントに参加した。
「どうすれば仙台を盛り立てられるのか」をテーマに、仙台で活躍する若者4人が発表・トークセッションする形式だった。
 
4人はそれぞれ学生起業家、イベントプランナーなど、20代前半ながら錚々たる経歴の持ち主で、プレゼン能力も非常に高く、なにより勢いがあった。
 
司会者から「今の仙台をどう思う?」という質問がでたときである。
 
4人は口をそろえて「もったいない」と仙台を評価した。
仙台市民は能力が非常に高いのに、活かす機会がなく、また活かそうとする気もないために、得るべき社会的評価を得ていないのが惜しい、というのである。
能力を活かしきっている彼らからすれば、歯がゆく思われるのであろう。
 
しかし、彼らにもったいない宣告を受けた仙台市民たちは、自分の生き方をもったいないと思っているだろうか?
 
少年漫画をこよなく愛する私は、社会への有用性や社会的評価を強く求める彼らの姿に、サイヤ人を重ねずにはいられなかった。
 
鳥山明の名作ドラゴンボールに登場する戦闘民族サイヤ人は根っからの戦闘狂で、常に強い敵と戦うことを求めている。
主人公、孫悟空にもその血は受け継がれており、次々と現れる敵との闘いと自分の戦闘力を上げることに病的に執着する。
未来の情報を手に入れ、その出現を阻止できたにも関わらず、自分が戦いたいがために人類の脅威となる“人造人間”の出現をあえて待つなど、とんだクレイジーぶりである。
 
悟空のクレイジーな言動による被害は息子である孫悟飯にまで及ぶ。
悟飯は地球人の血が混じったためかそこまで戦闘には興味がなく、学者になることを目指す心優しい少年に育っていた。
 
悟空の力も及ばない敵‟セル”との闘いで、悟空は自分よりも潜在能力を秘めつつも戦いを望まない悟飯を、なんと無理に「キレさせる」ことでパワーアップし、セルに挑ませようとするのである。
 

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とんでもない戦闘民族エゴの押し付けである。
そんな生活環境で無事悟飯が学者になれたことに、私は涙を禁じ得ない。
 
 仙台で活躍する若者4人の「もったいない」発言は、この戦闘民族エゴの押し付けに近いと私は思う。
サイヤ人が「戦わない人」をよしとしなかったように、「もったいない」という言葉の裏には「有用性のない人」「社会的評価を得ていない人」をネガティブにとらえる思想が潜んでいる。
 
確かに有用性を優先することは資本主義の観点から見れば重要で、切磋琢磨することでより大きな結果が生まれるだろう。
しかしその思想が人間の価値そのものを規定するものになってしまうと、優性思想に見られるような一部の人を切り捨てることにつながる。
 
有用性や社会的評価を得続けるには、多大な努力をしなければならない。
人生の大半を修行に費やした悟空のように、それを苦としない人にとっては問題ないのだろうが、もちろんその生き方が合わない人もいる。
 
また社会的評価があるうちはいいが、それがなくなったとき、誰かに上回られたとき、劣等感が生まれ、苦しくなるだろう。
強さだけを生きる術としてきたサイヤ人がより強大なフリーザに滅ぼされてしまったように。
 
有用性や社会的評価、また強さなど、価値基準を一本化させない、むしろ人間の価値を何かの基準に委ねず、あるがままを認めていくような風潮が今足りていない。
 
尻尾が生えている赤ん坊でも、拾って大切に育てる孫悟飯(悟空の育ての親)のようなおおらかな姿勢が、今必要ではないだろうか。
 

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トイレ。その深淵をおおいに語る。

トイレ。
 
それは家の中でもっとも心安らぐ場だと言っても過言ではない。
子どものころトイレにこもって漫画を読むのが大好きで、家族が用を足したいにもかかわらず、私がトイレから出なかったのでトイレ漫画禁止にされ、ズボンに漫画を挟んで持ち込み、隠れて読み続けていた。
 
なぜここまでトイレを愛しているのか、分析してみよう。
 
トイレは風呂についで無防備な姿になる場所だ。
人には絶対に見られたくない排泄行為をしている、という点を考えればもしかすると風呂よりも無防備だと言えるかもしれない。
 
しかしそれは裏を返せば他のどこよりも、無防備になれる場所だとも言える。
 
いたいけなお尻を温かい便座に受け止められたときの、あの心地よさ。
多分それは、自分の心の奥底に抱えていたナイーブな悩みを引き出してもらい、それを優しく受容してもらう上質なカウンセリングを受けたときのような安堵感に近い。
 
しかし、下手なカウンセリングを受けると逆に傷ついてしまうのと同じように、質の高いトイレでなければ、快適なトイレットタイムを過ごすことはできない。
 
便座が温かいのは当然のこととして、その他トイレを評価するポイントとして、私は
・清潔感
・広さ
・ウォッシュレットの有無
の3点を重視している。
 
言うまでもなく、汚いトイレに腰を下ろす気にはさらさらならない。
美しいトイレ、そして掃除したてを意味する三角折りトイレットペーパーになっているトイレに入ったとき、私は五体投地したくなるほどテンションが上がる。
一番風呂ならぬ一番便座なのだ。
 
狭いトイレも許しがたい。
用を足そうとズボンを下ろせば下ろすほどバランス感覚はなくなるのに、狭いトイレはバランスをとるのに十分なスペースがないために、窮屈な姿勢にならざるをえない。
ややすれば大切な洋服が便器についてしまう怖れだってある。
 
ウォッシュレットを使わないという友人が何人かいるが、私にとってウォッシュレットのないトイレは夏休みのない8月のようなものだ。
TOTOのウォッシュレットのキャッチコピー「おしりだって、洗ってほしい」は私の心を掴んで離さず、私をウォッシュレットなしに生きていけない性質に変えてしまった。
 

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以上を踏まえ、今まで用を足してきたトイレの中でマイベストは阪急うめだ本店2階男子トイレだ。
適度なウォッシュレットの強さ、便座の温かさ、エアータオルの性能、非の打ち所がない。
 
 
さて、大便器の話ばかりしてキモイと感じている人もいるかもしれない。
 
しかし安心してほしい。
 
 
 
もちろん小便器の話もしよう。
 
女性の方にはちょっと関係のない話になるかもしれない。
 
小便器は洋式便座トイレが持つ精神的なエンパワメント性よりも、その機能性に驚かされる。
それも適度な水圧のウォッシュレットや、汚れにくい加工を施してあるなどメカニックな機能性でない。
より快適な排尿を支える小さな心配りがそこにはある。
特に先程挙げたトイレの「清潔さ」を保つためのいろいろな工夫があるのだ。
 
目につきやすい工夫として、小便器内に貼り付けられた温度色彩変化ターゲットシールがある。
このシールが1つポン、と貼られるだけでなぜか躍起になってそこを狙ってしまう。
 
「色を、何とか制限時間以内に色を変えたい…!」
 
人間の課題達成欲求を巧みに利用した世界に誇る技術である。
調べてみたがシールにはこんな種類があるらしい。

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一度おばけトイレにチャレンジしてみたいものである。
 
一方、目につきにくくはあるが、温度色彩変化ターゲットシールに並ぶ工夫が我々の足元にあった。
 
これだ。

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おわかりになるだろうか。
拡大してみよう。
 

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そうこの段差だ。
 
この段差に登らない位置だと用を足すには遠すぎる。
と言って段差の上に靴を乗せるとバランスが悪く、快適な用足しに及ぶための安定感を確保できない。
そのため段差を完全に登りきるまで、一歩前に進まざるを負えなくなる。
この一歩前が散布範囲を一気に狭め、美しいトイレを保つのである。
 
このような細かい工夫が日々当たり前に使うトイレにちりばめられている。
ありがとうトイレ。
ありがとうトイレにかかわるすべての皆さん。
 
 
さて、最後まで読み進めてくださったあなた。
今回はいつもの偉そうな説教じみた話は全くありません。
これで終わりです。
トイレについて思う存分語ることができ、私は満足です。
 
あーーーーすっきりした。

ボランティアを日常化するために髪型をツーブロックにしてみませんか

学生の頃一緒に東日本大震災のボランティアに取り組んだ友人から、
「ボランティアはどうしたら日常化するのか?」というテーマで記事を書いて欲しいと言われた。
 
甚だしく難解なお題である。
 
もちろん私は専門家でなく、学生時代はプレイヤーとして、社会に出てからはコーディネーターとして被災地ボランティアに関わってきたので、「震災」「学生」をキーワードにしてこのテーマについて論じたい。
 
阪神淡路大震災が起きた1995年はボランティア元年と呼ばれ、それまで認知度の低かったボランティアという言葉、その行動が世間に広まった。
しかしそれが日常化したかと言われると、素直に首を縦に振ることができない。
 
ボランティアに参加した私や他のメンバー、そして未だに被災地へバスを派遣し活動し続ける後輩たちは、
「現地にもっとボランティアが来れば復興は進む」
「ボランティアの良さや被災地の現状を知ってもらいたい」
などの理由から、広報誌やSNSでボランティア参加の呼びかけを長く行ってきた。
 しかし例えば軽音サークルは他人に「ロックしよう!」と声高に主張はしない。
それは軽音楽が普遍であるために敢えてアピールする必要がないからで、私たちの呼びかけはボランティアが普遍でないことを暗に示唆している。
 
ボランティアの社会への浸透を妨げるのは、その言葉が持つ重さだ。
ボランティアは「貢献」という意味を含むので、どうしてもそこには「自己犠牲」であり「高尚」というニュアンスがつきまとう。
 その安易な紐付けによってボランティアとは“善”の心を持つ奇特な人がする特権的なもの、と思われてしまう。
 
しかしボランティアをする人が皆”善”をきっかけにしているかと言うとそんなことはない。
例えば被災地ボランティアなどでは
「現地はどうなってるのか?」
「友人が行ってるから」
くらいの気持ちで参加する人が多い。
ちなみに私は親に「行ってこい」と言われたのがきっかけだ。
 
その結果参加者たちは、楽しさややりがいを見出したり、現地の人と仲良くなりまた会いたいと思ったり、そうしてボランティアを継続していく。
 しかしこうしたメリットは実際に行ってみないとわからない。
特に後者などは関係性ができて初めて感じる喜びだ。
 つまりボランティアを広報することは、ボランティアの良さを伝えてはいるが、伝えきることはできない、というジレンマを常にかかえている。
 
そのジレンマを超えるために、
「ボランティアしたことのない人を変える」のではなく、逆に
「ボランティア自身がが変わる」という考えを持ってみるのがいいのではないだろうか。
「ボランティアに行こう!」と呼びかけるよりも、自分たちの姿勢や考えを変えることでボランティアを増やすのだ。
 
 
さて、ここからがようやく本題である。
 
しかもまだここで半分である。
ワンピースで言うならこんなに読んで「まだ魚人島かよ」という絶望に近い。
読者10人のうち8人はスマホを投げ出して録画していたドラマ「逃げ恥」を見初めているだろう。
残りの2人はどうかまだグランドラインの航海に付き合ってほしい。
 
 
ボランティア自身がどう変わるか。
 
それを考えるにあたり、先ほど書いた「友人が行ってるから」ボランティアするという参加理由が手がかりになる。
 
高尚で自分には関係ないと思っていたのに、友人や、自分と同じ立場の人が参加しているという事実によって、人はボランティアに身近さを感じる。
この身近さを増すことで、ボランティアを特権的な位置から一般的な社会に降ろすことができるのではないだろうか。
 
大掛かりな仕掛けとしては、ボランティアをすれば人気アーティストのライブに行くことができるプロジェクト、RockCorpsが有名で、ボランティアを私たちの身近な音楽と結びつけている。
 
一方、ボランティア個々人でできるような小規模な仕掛けも論じたいが、ここで
「周りの友だちにボランティアを勧めてみて★」
というありきたりな結論で終わっては、新垣結衣の魅力を振り切って読んでくれてる人に張り倒されそうなので、もう少し突っ込んだ提案をしたい。
 
1つの案として、ボランティアのファッションについて考えたい。
 
例えば女の子の
「休日何してるの〜?」という質問に、
白靴下をファッショナブルに履きこなすようなオシャレ系男子が
「ボランティアかな〜」と答えると、
「えー!いがーーーーい!」と言われるやりとりを今まで何度か見てきた。
 
そして垢抜けない服装の人が同じ答えをしたら
「あ、ぽーーーーい!」というやりとりは幾度となく見てきた。
 
つまり「ボランティア=非オシャレ」という、ファッションを軸としたボランティアのカテゴライズがなされている。
 
もちろんボランティアの現場でオシャレなど二の次三の次だ。
身動きをとりやすくしないといけないし、被災地のような過酷な状況の中で華美な服装は反感を買うだろう。
鏡の前で30分以上ワックスで自分の髪型を整え、家を出てからも鏡の前を通るたびに髪の毛をいじっていた高校生の頃の私のようではいけない。
当時の私はとんだ自意識過剰野郎であった。
 
しかし普段の生活の中でならオシャレは上手く利用することができる。
 
日常からかけ離れたものを広く訴求させた団体として、分野は異なるが、平和安全法制(安保法制)に反対を唱え大規模なデモを展開した「自由と民主主義のための学生緊急行動」(SEALDs)が好事例だろう。
 
「デモはカッコイイと思わせる」というモットーの元、現代風の服装やヒップホップで攻撃的なイメージのあったデモ運動を日常的なものにデザインした。
 
特にメンバーの奥田愛基さんはそのモットーを体現しており、平和安全法制を審議する参院特別委員会の中央公聴会にツーブロックヘアーで行ったのはおそらく日本で彼が初めてだろう。(知らんけど)
 

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ファッションの意味について、ファッション学にも造詣が深く、現在朝日新聞で「折々のことば」を連載されている哲学者の鷲田清一先生の主張が興味深い。
 
ファッションにぜんぜん気がいかない人はかっこよくないが、ファッション、ファッション…とそれしか頭にないひとはもっとかっこわるい。
このふたつ、一見反対のことのようで、じつは同じ態度を意味している。
 
他人がそこにいないのだ。
 
あるいは、他人にじぶんがどのように映っているかという、そういう想像力の働きが、欠けているのだ。
 
ひとにはそれぞれ印象というものがある。
印象がいいというのは、ファッションではもちろんほめ言葉のひとつだ。清潔な感じがするとか、さっぱりしているとか、あるいはダサいとか、暗いとか、かったるいだとか。
 
・・・(略)・・・「印象」の反対の言葉をご存知だろうか。「表現」という言葉だ。
 
・・・(略)・・・ファッションというと、最近は、多くのひとがこの「表現」に結びつけて考える。
 
・・・(略)・・・おしゃれというのは、じぶんを着飾るということではない。
むしろそれを見るひとへの気くばり、思いやりだと考えると、服を選ぶセンスが変わってくる。つまり、他人の視線をデコレートするという発想をどこかに取り入れること、つまりそういうホスピタリティが、ファッションでいちばん大切な要素なのではないかと思う。
 
・・・(略)・・・舞妓さんと修行僧、徹底的にドレスアップして客を歓待するひとと、徹底的にドレスダウンして衆生を迎え入れるひと。
どちらも常人のしらない幸福を教えるホスピタリティのプロ、どちらもけっしてじぶんのために着飾っているわけではない。
こういうセンスの働かせ方を、多くのひとが忘れかけているのではないだろうか。
鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」P6
 
つまり、“ファッションにぜんぜん気がいかない人”は、他人への意識、ひいては社会への意識が低いと考えることができる。
 
それは他者との疎遠につながっていく。
 
他者の視線を意識したファッションをすることで、例えば奥田さんのようにツーブロックヘアーにしてみることで、「あのオシャレな人もしているのか」と、ボランティアは日常へ降りてくることができるのではないだろうか。
 
もちろんファッションに興味がない人が無理矢理ツーブロックにする必要はない。
あくまで関心のある人がボランティアを日常化する手段として、試してみたらいいと思う。
 
ちなみに私は美容院で「今日はどうしましょうか?」と聞かれたら
「軽くツーブロックで」とさりげなく言い続けている。
 

てつがくを着て、まちを歩こう ――ファッション考現学 (ちくま学芸文庫)

 

男の居場所のつくりかた(1)「なぜ今男性を支えるのか」

現在、仙台市で男性の男性による男性を考えるための「男の勉強会」を主宰している。
 
「男は一家の大黒柱として妻子を養わなければならない」
「男の子なんだからいつまでも泣いてちゃダメ!」
 
男は強く、周囲の人に頼られる存在として期待されがちである。
 
高校のとき付き合っていた女の子が「この映画いいよ!」とおもむろに貸してくれたDVDを見てみると、
マッチョなイケメンカリスマヤンキーが主人公のアクション映画で、
「俺もこうなることを求められているのか…!?」
と必死に腹筋トレーニングを始めた私だったが、
やはり期待されていたのだろうか。(たぶん違う)
 
周りからの期待だけなら拒めばいい話だが、私たち男は周りから促されずとも「男かくあるべし」と、明確な理由なしに自分で自分を制限しているところがある。
 
どんな場面でも女性を力強くリードすることが何よりも大切だと思っている人。
仕事は成果を出すことが全てと考えて働きづめている人。
 
私なんかは、それが何かに結びついたこともないのに、女性と歩いているとき、さりげなく車道側を歩く習慣が染みついている。
 
しかし車に轢かれれば男女関係なくケガはする。
 
「男は弱音を吐かないもの」「男は耐えて努力するもの」と自分を制限した結果、それは良い結果になることもあるが、自身が苦しくなってしまうこともある。
 
自殺、過労死をするのは男性の方が多い、というデータにもそれは見て取れる。
 
 

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(平成28年3月 警察庁統計資料「平成28年中における自殺の状況」) 

 

「男の勉強会」の目的は、そうした固定的な「男らしさ」を無理なくゆる~くほどいていくことだ。
年齢(20代~60代)も背景も異なる8~10人の男性たちが集まり、
「愚痴」「ジェンダー」「プライド/劣等感」「性欲」などをテーマに、自分が思うことを自由に語り合う。
そうして様々な人の視点に触れることで、「こう考えることもできるのか」という気付きが生まれることを大切にしている。
 
男たちが、そして男たちが関係していく人たちが、少しでも生きやすくなることを目指して今後も活動していきたい。
 
 
勉強会は今年度いっぱいは月一で開く予定です。
 
今後のスケジュール
11/8(火)18:30-20:30
第4回男の勉強会「男とプライド/劣等感」
11/19(土)15:00-17:00
男を語るにはもってこいの会(女性参加可!)
 
次回は勉強会を開いたきっかけについて書きたいと思います。
 
市民団体 Re-Design For Men

https://www.facebook.com/RDFM0625/

 

※男性の抱える問題については社会学の一領域「男性学」で詳細に研究されています。

男性学入門

星野源、その童貞力。そして童貞抑圧。

TBSのドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が人気だ。
 
設定の面白さや脇を固める俳優陣の厚さはもちろん、新垣結衣の圧倒的な可愛さに話題が集まっている。
人間界の業をすべて解き放つような微笑みをたたえながら「恋ダンス」を踊る新垣結衣からどうしても目を離すことができない。
古田新太の実はかなりキレキレなステップなどにも目もくれない。
 
しかし、
しかし今日は新垣結衣のあふれる可愛さに関して20000字くらい書きたい欲求を抑えて、あえてもう一人の主演、星野源に言及したい。
 
星野源は役者業、音楽業、文筆業、映像制作業を行う、異色の存在だ。
「SUN」が人気を博して以来華々しい活躍を見せているが、本人曰く自身は劣等感の強い性格らしい。
小学生のころに自分がオタクであることに気づき、「自分は人と比べておかしいのではないか」と思い悩んだと著書「蘇える変態」でつづっている。
音楽も軽音楽部のような学校の人気者という形ではなく、学校生活のドロドロしたものを家に持ち帰り曲におこしていたらしい。
 
そうした星野源の欝々とした経験は、彼の演技の中で童貞力という形で強く発揮されている。
童貞力とはつまり「女性関係にこなれていない感」である。
 
星野源演じる津崎平匡36歳は36年間女性と交際したことがない。
さりげなく「ただいま」と言おうとして「ただいま!・・・・帰りました・・・」と濁してしまうシーン
前回、新垣結衣演じる森山みくりに恋人になってほしいと言われ、パニックになるシーン
などにそれは顕著に表れる。
星野源の主演映画、「箱入り息子の恋」や「地獄でなぜ悪い」にも彼の童貞力はあふれ出ている。
 
ここまで秀逸に、かつリアルに童貞を演じられるのは、彼と森山未來くらいだろうか。
童貞界の二大巨頭である。
 
童貞の魅力は、女性関係において、例えばドラマ「花より男子」の小栗旬なら5分でできることを、3か月くらいかかってしまうような、多大な労力を要するところにある。
一般的な恋愛モノは早々に男女が結ばれ、それ以降の葛藤などが描かれる。
一方、自身の劣等感や経験不足が邪魔をしてなかなか恋愛が発展しないからこそ、童貞系恋愛モノは、彼らが成長しかつ恋愛成就することがゴール、というサクセスストーリーに仕上がるのだ。
 
 
童貞について熱く語る私の姿にすでに引いている方も数名いるかもしれない。
しかしここからが本番である。頑張ってついてきてほしい。
 
童貞の劣等感はなぜ生まれるのか、という問題である。
 
恋敵となる同僚のあごひげイケメン風見の出現に、平匡は激しく揺さぶられ、みくりへの気持ちを素直に認められず、こんな思いをするならみくりと別れたほうが…とまで考え出す。
みくりはこの平匡を傾向を自尊感情の低さによるものと分析するが、それは平匡に限らず、多くの童貞や非モテ男性にも通ずる。
その要因の一つが、社会に広がる童貞抑圧の風潮だと私は考える。
 
社会学者の渋谷知美の著書「日本の童貞」によると、性交経験の有無やその回数が、人間の、特に男性の価値に影響を及ぼし始めるのは1960年代半ばからだという。
それまでお見合い結婚が主流であったのに対し、その時期を境に恋愛結婚が数で逆転する。
つまり、何もしなくても周りが勝手に相手を見つけてくれ、結婚までセッティングしてくれる、男たちにとってぬるま湯の時代から、相手を見つけてくるのは、個人の能力・努力次第であるという、激動の自己責任時代に突入したのだ。
 
1980年代になると童貞への攻撃は苛烈さを増す。
相手を見つけられないのはもはや個人のパーソナリティに問題があるとして、「不潔」「コミュニケーション能力が欠如している」などと非難されるようになる。
 
現代では草食系男子という言葉が生まれ、そこまで問題ではなくなってきているかもしれないが、それでも「20歳過ぎると妖精見える」「30歳過ぎると魔法使い」(年齢には地域差アリ)など揶揄する言葉は後を絶たない。
 
私自身、童貞が仲間内で話題になったとき、それをネタの方向でしか語らなかったし、童貞のころ無性に焦りを感じていた。
 
しかし童貞で悪いなどということは全くない。
卒業のタイミングは周りにとやかく言われて決めるものではなく、そうしたいと思った相手と、そうしたいと思ったときに訪れるはずだ。
 
そのために私たちは童貞を語るとき、揶揄やネタとは違う方向で語っていくべきだと思う。
 
逃げ恥、今後津崎さんがどう童貞劣等感から解放されていくのかがとても楽しみだ。
 

蘇える変態

 

日本の童貞 (河出文庫)

ニートはこうして生きている。

7ヶ月に及ぶニート生活が終わりを迎えた。
 
ニートの定義は様々であろうが、
not 
in 
education(教育)
employment(雇用) or 
training(職業訓練
という言葉通りなら、私は紛れも無いニートであった。
 
後半の3か月は大学院入試のため毎日図書館に通いせっせと受験勉強に励んでいたが、
前半は何をしていたか、と聞かれると「何もしていない」としか答えようがない。
村上春樹の小説の主人公さながらに本を読み、コーヒーをいれ、映画を見に行き、たまにハローワークに行くくらいのものだった。
スターウォーズをepi1~7一気見するなど、もうこの時しかできなかっただろう。
 
しかし「ニート」「無職」「失業者」の言葉の破壊力たるや。
だいたいにおいて前向きであることを自負している私だったが、自分の身分を明かすことをこれほどためらったことは未だかつてなかった。
久しぶりに会う友人の
「今は何してるの?」という質問に、
「何もしてないんですう」と答えると
「ああ、、そ、そうなんだね」という触れてはならないものに触れたかのような返答が返ってくる。
 
最も苦しいのは美容院である。
せっかくのニートだから、とすいている平日に行こうものなら
さわやかな美容師のおにいさんから
「今日はお仕事はお休みですか??」という鬼のような質問が飛んでくる。
 
その場は「いや、今日は休日出勤の振休で…」という答えで回避するものの、まさに墓穴。
翌月同じ轍は踏むまい、と休日行ってみるとおにいさんから
「あ、今日は休日出勤ないんですね!」と自分が無職であることをこれでもかと突き付けられる。
 
もはやオシャレ美容院がとんだ地獄である。
 
新聞、ネット、あらゆるメディアに載る『募集中』の文字にコンマ2秒で反応するほど追い詰められた私は、なけなしの自尊心を守るため、
「何をしているの?」という質問に
「今フリーなんですう」という何かやってそうな空気を出そうとして正直意味のわからない返答を繰り出すまでに仕上がっていた。
 
失業手当3か月(平均月12万円)が出ていたころはまだ何とかなる、
と余裕のあった私も、それが切れると次第にニートであることを自覚し、
また周りの反応から、それを‟良くない”状態と思い込んでいた。
 
転機となったのは、ハローワーク嘱託のキャリアカウンセラーとの出会いだ。
若者の失業に歯止めをかけるべく、行政が民間のカウンセラーに業務を委託しており、無料でカウンセリングが受けられた。
 
そのカウンセリングで半端なく自己分析!自己理解!自己洞察!が進んだ!!
というわけではない。
カウンセラーの方は普段通りに話をされていたと思う。
 
しかし私は「失業」を当たり前のこととして人と話し合えることが新鮮でならなかった。
その瞬間「失業」は触れてはいけないタブーではなくなり、
ニート」は‟良くない”状態ではなくなった。
 
「若者は社会貢献しなければならない」
「男は仕事の達成感を感じて生きていくものだ」
という安易な言説は強く、働かないことはネガティブにとらえられがちだ。
 
しかし私はそれで誰かを傷つけたわけでも、自分を死地に追いやったわけでもない。
それ以来私はニートも生き方の一つであると感じることができるようになった。
 
仕事に忙殺され考えることができなかった「これまでの自分」「これからの自分」を振り返ることができた点から見れば、そこにメリットもあった。
 
ニートを勧めるわけではない。
しかし、生き方の一つとして、選択肢の一つとしてそっと並べてみたい。

お釣りを渡すとき受け取った手に触れてくるのはやめてくれませんか。

おそらくそれがなくてもお釣りはこぼれない。
 
おそらく買い物客は、冬の冷たい風でかじかんだ手を包みこんでくれるような人肌のぬくもりを店員に求めてもいない。
 
なぜかコンビニ店員の30人に1人くらいの割合で、お釣りを手渡すとき受け取った手に触れてくる人が、確かにいる。
 
それをされたとき、私はぬくもりどころか、
全身の毛がゾワッと波打つような後味の悪さを感じる。
その人が気持ち悪いからではない。
自分の領域に踏み込まれたように感じるからだ。
 
パーソナルスペースという概念がある。
コミュニケーションをとる相手が自分に近づくことを許せる距離を指し、
 
家族、恋人なら0cm〜45cm(身体に容易に触れることが出来る距離)
友人なら45cm〜120cm( 二人が共に手を伸ばせば相手に届く距離)
上司など改まった関係の人なら120cm〜350cm (身体に触れることは出来ない距離)
 
が理想だとされている。
確かに自分から45cmの距離に上司がいるとギョッとするだろう。
 
自身も劇団員で、専門学校で学生たちに演劇を教えている知人から、
教える際「待つ」ことを何よりも重視している、と聞いたことがある。
 
演技は“自分なりの”表現方法で言葉を発しなければならない分、
何気ない会話よりもある意味自己をさらけ出すことになる。
その時、先生からプレッシャーをかけられたり、台詞を言ってすぐ評価をされたりすると、さらけ出した「自己」が攻撃されるようで恐ろしくなる。
 
できるだけ生徒たちが素直に表現できるように、教える際は居心地のいい空気感を作り、言葉が出てくるまでじっくりと「待つ」ことが重要なのだという。
そうして言葉が出てきて初めて先生は言葉を発し、ようやく生徒と会話を行う。
 
言葉と言葉が触れ合うだけでも、これだけのハードルを越えなければならない。
 
ましてや肌と肌が触れ合うには、十分に安心感のある関係性が必要になってくるだろう。
相手がくまモンのように見るからに包容力のある方ならまだしも、初対面の人におもむろに安心感を抱くことはそうはない。
 
自分と他者との関係性、そしてその関係性に応じた距離感を常に意識したい。
 
 
前置きが長くなった。
 
以上の理由からコンビニ店員の皆さん、
お釣りを渡すとき受け取った手に触れてくるのはやめてくれませんか。