フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

しずかちゃんに見るジェンダースタディー

「男・女とはこういうもの」という固定的な性別の枠組み、ジェンダーステレオタイプ(性別固定観念)。
 
「プロポーズは男がするもの」といったように、私たちはそれを当たり前として暮らしているので、なかなかその存在に気づかない。
朝日新聞が先日「女子力」についての特集を組んだが、一体「女はこうあるべき」と考えることのどこに問題があるのだろうか。
 
 
今回は藤子不二雄の大傑作『ドラえもん』のキャラクター、しずかちゃんのプロフィールと、作品内のエピソードをもとにジェンダーを考えてみたい。
 

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プロフィール
ドラえもんメインキャラの紅一点、しずかちゃんは24時間ピンクの服をまとい、1日少なくとも2回は風呂に入る綺麗好き。
趣味はピアノとバイオリン。
面倒見もよく、「放っておくと心配だから」という理由でのび太くんと結婚するという、優しさを絵に描いたような存在だ。
勉強もでき、成績も優秀だが、注目すべきはそれでも出木杉くんよりは劣るという点である。
 
「良妻“賢”母であるべき」だが「男の一歩後ろを歩くべき」
 
という当時の(今も?)社会が作り出した女性像の抱える二律背反を如実に反映している。
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エピソード1「しずかちゃんは留守番を頼む」
映画版のドラえもんエピソードでは、しずかちゃんはとにかく留守番要員として扱われることが多い。
ストーリーに深くかかわってきたはずなのに、敵との最終局面で裏方に回されるのだ。
 

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日本の近代以前は農業という形で夫婦共同で働くことが当たり前だった。
ところが産業革命以降、工場労働がメインの産業になり、シフト通りに安定した労働力を出すことが必須になると、男女どちらかが育児やパートナーの健康管理をする必要がでてきた。
そのため子どもを出産できる女性がそのサポーター役に収まり、それが現代の「女性は男を支えるもの」というイメージを作り上げたという。
 
エピソード2「のび太くんへの抑圧」
しずかちゃんばかりが男から一方的に「こうあるべき」と抑圧されている訳ではない。
彼女ののび太へのプレッシャーもなかなかのものである。
全編通して、ジャイアンスネ夫に追われ、しずかちゃん宅に逃げ込むのび太を「男らしくないわ」と非難することがままある。
安全基地だと思っていたしずかちゃんからも突き放され、のび太は「男らしく」あるために、腕っ節では歯が立たないジャイアンに挑むしかないのであろうか…。
 

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エピソード3「女性役割から解放される時」
自分も他人もジェンダーステレオタイプの枠にはめ込むしずかちゃんだが、実は彼女は「(いわゆる)女性らしくありたい」と心から願っている訳ではない。
 
コミックス42巻『男女いれかえ物語』はドラえもんの秘密道具「入れ替わりロープ」によってのび太としずかちゃんの中身が入れ替わってしまうというエピソードである。
 

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寝相や話し方など女性的にふるまうようしずかちゃんのママに叱られ、辛い思いをするのび太(身体はしずかちゃん)に対し、のび太の、男性の身体を手に入れたしずかちゃんは
「一度やってみたかったの」と野球や木登りに大いに興じる。
 

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それまでは‟女性らしく”という理由から、本当はしたいのにできなかった。
それが女性の殻を捨てたことで、ようやく彼女の願望は解放されたのである。
 
ここまで見てきたようにジェンダーステレオタイプは選択の自由を奪い、したくないことをしなければならない不自由さを強要する。
 
藤子先生がレイシストなわけではもちろんない。
むしろ「男女いれかえ物語」は男女共同参画に大きな示唆を与える作品だ。
それでも藤子先生含め、世間には「男・女はこうして当たり前」という風潮が広がっており、それは現代でも依然として残っている。
 
もちろん女性はピアノやヴァイオリンをしてはいけない、というわけではない。
世間の風潮や、周りからの意見の押し付けに縛られず、個人の自由で自分のしたいことを選択することが大切だと思う。
 
木に登りたければ木に登れる社会が、やはり良い。