フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

子どもの貧困における最も大きな問題とは

子どもの貧困。
今日本が抱える大きな問題の一つであり、近年流行している子ども食堂などの支援の輪が大きく広がっている福祉分野だ。
 
2年という短期間ではあるが、私も貧困世帯の中学生の居場所支援を行っていたことがある。
食事を満足にとることができない、塾など充実した学習機会がない、など様々な問題があげられているが、私は彼らの自尊心の低さを特に問題視した。
 
彼らは自分自身に対し、驚くほど投げやりだ。
 
「自分なんかどうなったっていい」
「勉強してどうなるの?」
「別に生きている意味ないし」
 
不真面目だからではなく彼らには未来を考える余裕そのものがないように感じた。
 
 
哲学者の鷲田清一先生は、母校の小学校の校舎が丁寧に、立派に作られていたことを引き合いに、自尊心とは‟他人がじぶんを大切に思ってくれていると思えるときに湧き上がってくる”と説く。
 
わたしはむかしと変わらぬ教室の佇まいを見つめながら、しみじみとおもった。
むかしの大人は、子どものことだからどうせすぐに傷めるだろうと、手すりを、床板を、安造りにはしなかった。
逆に、子どもが昼間のほとんどを過ごす場所だから、丁寧に、立派に造っておいてやろうと考えた。
そういう気配のなかでわたしたちは幼い日々を送った。
そのときはそんなことは感じてはいなかっただろうが、気配は皮膚の下までたっぷりとしみ込んでいったはずだ。
他人にそのように大事にされてはじめて、ひとはじぶんを粗末にしてはいけないとおもえるようになる。
そう、「自尊心」は他者から贈られるものなのだ。

 (鷲田清一『自由のすきま』)

貧困家庭の子どもたちは、その多くが一人親家庭(特に母子家庭)で育ち、しかも母親はダブルワーク、トリプルワークでほとんど家にいない。
いても仕事の疲れで余裕もなく、子どもがかまってもらえる時間は少ないだろう。
 
食事や学習機会だけではない。
他人に大切にされる体験が、貧困子どもは圧倒的に少ないのだ。
 

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子どもたちが通うまなび場でこんなことがあった。
 
いつも憎まれ口を叩く中学生の男の子。
横について数学を教えていると、
 
「なんだよそれ分からねーよ、にっしー(私はにっしーとよく呼ばれていた)まじ嫌いだわ。」
 
「俺は◯◯のこと好きやけどな。」
 
「は⁉︎きもっ!!!」
 
このやりとりが何度か続いた。
 
「にっしーうぜえわ」
 
「けど、俺は好きやなあ」
 
そして何度目かに
「嫌いだわ〜」という言葉に
 
「そうかあ、、」
 
とだけ言うと
 
「…え⁇ 好きって言わないの…?」
 
 
かわいいな!おい!
言ってほしいんか!
 
誰かに大切にされるという経験が少ないからこそ、彼は私のメッセージにどこか安心感を感じたのかもしれない。
 
 
あいさつをする。
名前を呼ぶ。
横にすわる。
話を聞く。
相手への思いを伝える。
 
単純なことだけれど、相手を1人の人としてちゃんと応じる。
そうすることで、目には見えないけれど、彼らの中にあたたかな栄養がたまっていくのでないだろうか。
彼らが成長したとき、それがいくらかの自信につながったらいいな、と今ふりかえって思っている。
 

 

「自由」のすきま (単行本)

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