弱さを知るには-シン・ゴジラ編-
自分の弱さと向き合うきっかけとして、人との出会いについて書いてきた。
出会った後気付く、自分と他者の違い。
そこで「自分の考えが全てに当てはまる訳ではない」と自分の限界点を認め、受け入れることが大切だと主張してきたが、それを阻む大きな壁がある。
私たちは現実を認識する時、あらかじめ決められた物語によって、一定の方向付けをすることが多い。
例えば「男は方向感覚に優れている」という言説がある。
確かに脳科学的に男性のほうが女性に比べて空間把握能力が高いという説もあるらしいが、私はそれに反し、極度の方向音痴である。
商店街でひとたび路面店に入れば、店を出た時どちらから歩いてきたのか5秒ほど考えなければならないほどだ。
あまり私(に空間把握能力が欠如していること) を知らない女性と二人で歩くとき、「この人についていけば行く先は大丈夫」的な期待をかけられている事が多いように思う。
その時彼女は「男は方向感覚に優れている」という物語で自分の認識を方向づけしている。
ごめんなさい。ぼくを信じないでください。
むしろエスコートしてください。
「障がい者は弱く常に助けを求めている」
「子どもは3歳までは母親の手で育てられるべき」
「ゲイはおしゃれ」
など、個人の考えを縛り、世間の風潮を支配する言説。
たとえ自分とは違う考えや価値観に出会っても、ドミナントスト―リーに縛られたままでは「私は間違っていない、あの人がおかしいだけ」と切り捨ててしまいかねない。
ドミナントストーリーは多数派や権力者(専門家)によって生み出されることが多いが、お気付きのようにそこに科学的根拠がないことも多く、人間全員に当てはまる訳ではない。
にもかかわらず「だってこうって決まっているから」と、さも当たり前のように語られ、私たちの自由な思考は妨げられる。
※以下ネタバレあり
今までのゴジラシリーズの作風を刷新し、ヒューマンドラマ的要素を徹底的に削ぎ落し、現代日本に巨大不明生物が現れたら…という設定の下、それに対応する日本政府の様子を淡々と描いたところに魅力がある。
東京湾羽田沖に出現した巨大生物の対処と近隣住民の避難誘導にあたり、内閣で最も注視されたのが「巨大生物が陸上歩行できるかどうか」であった。
陸上に上がってこられたら尋常ではない被害が出るだろう。
早速古代生物学者や海洋生物学者などが集められ有識者会議が開かれる。
その結論は「陸上歩行はありえない」というもの。
「この動き。基本は蛇行ですが、補助として歩行も混じっていますね。エラらしき形状から水生生物と仮定しても、肺魚の様な足の存在が推測出来ます。」
早く国民を安心させたいという思いから記者会見で「陸には上がってこない」と発表する首相。
「専門家が言っているから間違いないだろう」と思い込み、それに縛られたからこそ避難対応が遅れ、大きな被害を出した。
もし陸上歩行の可能性も検討していれば…。
このようにドミナントストーリーは他の可能性をふさぎ、一つの選択肢しかとらせない。
もし私が「男は方向感覚に優れている」 という言説にに縛られたままであったら、「俺男やのにおかしいのでは…」と自己否定していたかもしれない。
しかし何度も何度も道に迷うことで
「あ、俺男やけどそもそも方向音痴かもしれん」
と気づき、「方向音痴な男もいるかもしれない」という気づきを得た。
それ以来私は女性と歩くときは無理せず、先に「俺、方向音痴です!」と宣言するようになった。
この一般的に認識されている物語とは異なるものの、別の可能性を持つ物語をオルタナティブストーリー(今まで語られなかった物語)と言う。
それを得られれば私たちはもう少し生きやすくなるのではないだろうか。
シン・ゴジラでは、陸上歩行問題から
「あ、既存の考えに縛られてたらゴジラ倒せんかもしれん」
という気付きを得て、各省庁から様々な分野のエキスパートを集結させ、巨災対が編成される。
そのメンバーは‟そもそも出世に無縁な霞ヶ関のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児”などで構成される。
そして遂に彼らはゴジラを活動停止に追い込む…。
いつまでも一つだけの物語に支配されていてはもったいない。
自分が信じてきたドミナントストーリーの限界を受け入れれば、外の世界にある様々な選択の可能性を持つことができる。
会社勤めが苦手なら専業主夫になればいい。
パンクな障がい者がいたっていい。
そうすれば方向音痴な男も生きやすい社会が、きっと生まれるはずだ。
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)
- 作者: 野口裕二
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2002/06/01
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 37回
- この商品を含むブログ (31件) を見る