フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

弱さを知るには-シン・ゴジラ編-

自分の弱さと向き合うきっかけとして、人との出会いについて書いてきた。
出会った後気付く、自分と他者の違い。
そこで「自分の考えが全てに当てはまる訳ではない」と自分の限界点を認め、受け入れることが大切だと主張してきたが、それを阻む大きな壁がある。
 
 
私たちは現実を認識する時、あらかじめ決められた物語によって、一定の方向付けをすることが多い。
 
例えば「男は方向感覚に優れている」という言説がある。
確かに脳科学的に男性のほうが女性に比べて空間把握能力が高いという説もあるらしいが、私はそれに反し、極度の方向音痴である。
商店街でひとたび路面店に入れば、店を出た時どちらから歩いてきたのか5秒ほど考えなければならないほどだ。
 

f:id:pagonasofa:20170115144317j:plain

 
あまり私(に空間把握能力が欠如していること) を知らない女性と二人で歩くとき、「この人についていけば行く先は大丈夫」的な期待をかけられている事が多いように思う。
その時彼女は「男は方向感覚に優れている」という物語で自分の認識を方向づけしている。
 
ごめんなさい。ぼくを信じないでください。
むしろエスコートしてください。
 
 
障がい者は弱く常に助けを求めている」
「子どもは3歳までは母親の手で育てられるべき」
「ゲイはおしゃれ」
 
など、個人の考えを縛り、世間の風潮を支配する言説。
家族療法家のマイケル・ホワイトディヴィッド・エプストンは、それをドミナントストーリー(支配的な物語)と呼んだ。野口裕二『物語とケア』)
 
たとえ自分とは違う考えや価値観に出会っても、ドミナントスト―リーに縛られたままでは「私は間違っていない、あの人がおかしいだけ」と切り捨ててしまいかねない。
 
ドミナントストーリーは多数派や権力者(専門家)によって生み出されることが多いが、お気付きのようにそこに科学的根拠がないことも多く、人間全員に当てはまる訳ではない。
にもかかわらず「だってこうって決まっているから」と、さも当たり前のように語られ、私たちの自由な思考は妨げられる。
 
 
今回は『シン・ゴジラ』に登場する‟巨大不明生物特設災害対策本部(通称・巨災対)”設立までのプロセスを引き合いに、ドミナントストーリーの弱点を見てみよう。
 
※以下ネタバレあり
 

f:id:pagonasofa:20170115144955j:plain

 
シン・ゴジラ』は2016年夏に公開された映画で、総監督・脚本に『エヴァンゲリオン』の庵野秀明を起用した話題作である。
 
今までのゴジラシリーズの作風を刷新し、ヒューマンドラマ的要素を徹底的に削ぎ落し、現代日本に巨大不明生物が現れたら…という設定の下、それに対応する日本政府の様子を淡々と描いたところに魅力がある。
 
東京湾羽田沖に出現した巨大生物の対処と近隣住民の避難誘導にあたり、内閣で最も注視されたのが「巨大生物が陸上歩行できるかどうか」であった。
陸上に上がってこられたら尋常ではない被害が出るだろう。
早速古代生物学者や海洋生物学者などが集められ有識者会議が開かれる。
 
その結論は「陸上歩行はありえない」というもの。
 
「この動き。基本は蛇行ですが、補助として歩行も混じっていますね。エラらしき形状から水生生物と仮定しても、肺魚の様な足の存在が推測出来ます。」
 
という、後に巨災対に加わる尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の助言もむなしく、有識者たちの結論が採用される。
早く国民を安心させたいという思いから記者会見で「陸には上がってこない」と発表する首相。
しかし、それとは裏腹にゴジラは東京都大田区に上陸する…。
 
 
この有識者が出した物語がドミナントストーリーである。
 
「専門家が言っているから間違いないだろう」と思い込み、それに縛られたからこそ避難対応が遅れ、大きな被害を出した。
もし陸上歩行の可能性も検討していれば…。
 
このようにドミナントストーリーは他の可能性をふさぎ、一つの選択肢しかとらせない。
もし私が「男は方向感覚に優れている」 という言説にに縛られたままであったら、「俺男やのにおかしいのでは…」と自己否定していたかもしれない。
 
しかし何度も何度も道に迷うことで
「あ、俺男やけどそもそも方向音痴かもしれん」
と気づき、「方向音痴な男もいるかもしれない」という気づきを得た。
それ以来私は女性と歩くときは無理せず、先に「俺、方向音痴です!」と宣言するようになった。
 
この一般的に認識されている物語とは異なるものの、別の可能性を持つ物語をオルタナティブストーリー(今まで語られなかった物語)と言う。
それを得られれば私たちはもう少し生きやすくなるのではないだろうか。
 
シン・ゴジラでは、陸上歩行問題から
「あ、既存の考えに縛られてたらゴジラ倒せんかもしれん」
という気付きを得て、各省庁から様々な分野のエキスパートを集結させ、巨災対が編成される。
そのメンバーは‟そもそも出世に無縁な霞ヶ関のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児”などで構成される。
彼らが自由な発想で生み出す様々なゴジラの対処法は、正にオルタナティブストーリーだ。
そして遂に彼らはゴジラを活動停止に追い込む…。
 
いつまでも一つだけの物語に支配されていてはもったいない。
自分が信じてきたドミナントストーリーの限界を受け入れれば、外の世界にある様々な選択の可能性を持つことができる。
 
会社勤めが苦手なら専業主夫になればいい。
パンクな障がい者がいたっていい。
 
そうすれば方向音痴な男も生きやすい社会が、きっと生まれるはずだ。
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

 

 

弱さを知るには-車の運転編-

前回の記事では自分の弱さについて知るきっかけとなる「圧倒的な他者」との出会いについて、スポーツの強さを取り上げた。

 

kainishii.hatenablog.com

 

しかし強弱だけが他者性の表れではない。

 


仙台市地下鉄勾当台公園駅の構内はとてつもなく長い。
50mはゆうにある。

 

f:id:pagonasofa:20170107002603j:plain


今日の晩ご飯は何にしようかと歩いていると、小学校低学年くらいの子どもたちの集団に出会った。先生に連れられて20人くらいだろうか。

その内半数くらいの子どもが目隠しをし、していない子どもとペアになっている。

 

なるほど。
点字ブロックが長く直線に続く駅の構内は視覚障害実習を行うのにぴったりの環境だろう。

 

「うわー全然前が見えない!」「まっくら!」

 

目隠しをしている子が点字ブロックの上を、ペアの子に手をひかれながら歩いていく。
が、よく見るとワイワイしているのは目隠しをした方の子どもだけで、していない子どもの方は皆そろって真顔である。
見ているだけでハラハラするくらい緊張した面持ちで、目隠ししている子に

 

「ゆっくり…ゆっくり…」

 

「次右足だして、そう、次左足…」

 

と過剰に気を使って指示出しをしている。
それとは裏腹にぐんぐん進む目隠しズ。

 

そんな微笑ましい様子を見ながら、私は車の免許を取ってから初めて長距離運転に臨んだ時のことを思い出していた。

 

取得したものの、大阪・仙台という都市圏で暮らしてきたため、運転する機会が全くなかった私は2年間ペーパードライバーであった。

女の子とドライブデートのときも助手席で運転する彼女を応援する係に回る徹底ぶりである。

 

f:id:pagonasofa:20170107002851j:plain


しかしどうしても今働く大学の仕事の関係で、学生を車に乗せて運転せねばならぬ時が来たのだ。

やむに已まれず、運転の上手い学生のコバヤシくんを助手席に乗せて出発した。

 

コバヤシくんはたいへんにせっかちな性格で、普段話すスピードは一般人の3倍速、何に関しても進行が遅いとイライラしてしまう「いらち」である。

 

出発して早15分で私の運転技術の低さに気付いた彼は、私をサポートするため、そして自分の命を守るため、懇切丁寧に運転教習をしてくれた。

 

「ここ左です。はいサイドミラーを見て。

はい、いいですよ~。

カーブにはいるのでゆっくりブレーキ踏んで。

はい、アクセルを~~ゆっくり~ゆっくり~~はなして~~」

 

 

…本来せっかちなはずのコバヤシくんの心労はいかほどだっただろう。

目的地に着いた時、疲労していたのは久しぶりの運転をした私ではなく彼であった。

 

運転の上手いコバヤシくんにとってペーパードライバーの私が、目の見えている小学生にとって目隠しをしたペアの子が、ここでは「圧倒的な他者」になっている。


「運転すること」「見えること」など、自分が当たり前だと思っていたが、当たり前にできない人がいる。
それを無理に自分の基準に当てはめようとしたところで、私が運転できない事実は揺るがない。


その事実にぶつかった時、人は自分の基準に当てはまらない人がいることに、自分の世界の限界に気づく。

そうなれば、運転や視覚だけではなく、もっと小さな差異に対しても寛容になることができるのではないだろうか。

 

ちなみに運転技術は上がってきたものの、極度の方向音痴のため、未だに車のルートがわかっていない私。
今後も助手席でサポートよろしくコバヤシくん。

弱さを知るには-スラムダンク編-

前回の記事で書いた自分の弱さ、つまり自分の限界点を知るためには、まず「他者と出会う」必要がある。
もちろん自分以外の人とは毎日のように会っているだろう。
しかしその相手と自分の価値観の違いなどを鮮明に感じることはあまりない。
逆に言えばそのような他者の中にある“他者性”に触れる機会があれば、自分にはないもの、自分にはどうにもできないものの存在に気づくことができる。
 
今回含め、3回にわたって「他者との出会い」について書いていきたい。
 
 
井上雄彦の傑作『SLAMDANK』を知らぬものはいないだろう。
高校バスケットボールを描いたその作品には、文字通り手に汗握るシーンが幾度も描かれ、ラストまで息つく暇なく怒涛の展開を見せる。
また「諦めたらそこで試合終了だよ」など名言を数多く残しており、読者の心をつかんで離さない。
 
個人的に「良いスポ根漫画を読み終わった後そのスポーツが上手くなったと錯覚する現象」が最も強く表れる漫画でもある。
今なら3ポイントシュートをぼこぼこ決められそうな気がする。
 
数ある名シーンの中で私が最も好きなのはクライマックスの日本最強の山王高校戦、主人公の所属する湘北高校バスケットボール部の部長である、ゴリこと赤木剛憲が吼えるシーンである。
 

f:id:pagonasofa:20170105104955j:plain

(井上雄彦『SLAMDUNK』)
ここに至るゴリの内面の変化が今回のテーマ「他者と出会い、自分の弱さをしる」を如実に表している。
 
神奈川県NO.1センターと評され、それまでの試合では得点源の1人として活躍してきたゴリの前に、山王高校のセンター河田が立ちはだかる。
ボディーバランス、バスケセンス、シュート力などあらゆる面でゴリを上回る河田に、ゴリの攻撃はことごとく封じられる。
 

f:id:pagonasofa:20170105105137j:plain

 
それまで湘北高校が窮地の際には自分の力で勝利への道を切り拓いてきたゴリにとって初めての経験である。
河田に勝たなくては、と焦るゴリは無謀な攻めを繰り返す。
 

f:id:pagonasofa:20170105111606j:plain

f:id:pagonasofa:20170105105936j:plain

 
周りが見えなくなったゴリにストップをかけたのは、3年越しのライバル、陵南高校の魚住である。
 

f:id:pagonasofa:20170105105226j:plain

 
寿司職人を目指す彼は、大根のかつらむきをしながら、「河田は華麗な技を持つ鯛、赤木は泥にまみれた鰈だ」と形容する。
その言動には「人はそれぞれ違い、できることとできないことがある」「ゴリは刺身のツマのように引き立て役になることができる」というメッセージがあった。
 

f:id:pagonasofa:20170105105448j:plain

今まで誰よりも強かったからこそ、自分が勝たなければ湘北高校は負けると思っていたゴリ。
それが河田という圧倒的な「他者」と出会うことで、彼は自分の限界に気付く。
 
「バスケのうまさ」だけではなく、「経済力」「社会的評価」「イケメンさ」など、様々な個人の強さだけを追い求めても、必ず自分よりも上がいる。
その時、頼りにしていたその強さは一気に崩れる。
 
その事実を受け入れず、「俺は負けない」とゴリが延々と河田に勝つことに執着し続けたら…。
ゴリが魚住の助言で自分の限界を受け入れ、「個人の強さ」ではなく、「他のメンバーの力」に頼ることができたからこそあの湘北高校の奇跡的勝利はあった。
 

f:id:pagonasofa:20170105105329j:plain

 
もちろん個人の努力も大切だ。
しかし、そこには限界がある。
それを受け止めれば、私たちの可能性はさらに広がる。
 
その一連のプロセスをゴリは見せてくれた。
 
また、ゴリがそうであったように、自分の弱さを受け入れるのは難しい。
その時私たちにとっての魚住はいるか。
 
「お前は鰈だ」と言ってくれる存在をつくっておくのが、カギになるかもしれない。

新年早々自分の「弱さ」を考える記事

2016年最大の気づきは、「弱さを受け入れること」の大切さである。
 

f:id:pagonasofa:20170103002407p:plain

 
私を含むミドル〜ハイクラスの人間は普段、自分の周りをある程度自分の価値観に沿うもので囲んでいる。
 
気に入った服、好きな食べ物、仲の良い友人、そこそこやっていける職業。
 
つまずきこそあれ、自分の言動を強く阻むもの、自分の価値観と全く異なるものに出会うことはあまりない。
インターネットで情報を拾うときも、自分にとって都合の良い情報しか引っ張ってこない。(例えば主義主張が同じ人しかTwitterでフォローしないように。)
 

f:id:pagonasofa:20170103002922j:plain

 
 
その状況に慣れすぎると、私たちはふと、自分の納得できる世界がどこまでも続いているような錯覚を起こす。
人は自分と同じ考えで、同じものを望んでいると考えだす。
 
「自分の世界の限界点」を知らなければ、私たちはちょっとしたことで攻撃的になることがある。
 
例えば誰かと会話していて相手の意見が自分の価値観にそぐわなければ、たとえ答えのない話題であっても、「あなたは間違っている」と主張しだす。
対話ではなく、どっちが上か下かを決めるディベートになってしまう。
そしてそうした人ほど、理論武装が上手く、何か客観的事実に基づいた絶対正義のように他者を否定する。
 
これが他者への攻撃。
攻撃の対象が自分になることもある。
 
思い通りの環境にいると、なかなか自分の力の限界に気付かない。
自分のできることと、できないこと(=他の人に任せた方がいいこと)の切り分けが上手くできなくなり、働きすぎたり、他人に介入し過ぎたりする。
 
また弱さに気が付いても、それを受け入れず、周りに気づかれないように自分を覆う人も多い。
その結果陥るしんどさについては以前ブログでも書いた。
 
限界を超えて動き、自分を偽って生きる。
それはいつかどこかに歪が生まれる。
 
今世間で話題になっている不寛容、いじめ、ハラスメント、DV、差別、過労、自殺など、あらゆる問題は、この「自分の世界の限界点を知らない」ことに集約されると思っている。
 
自分の思い通りにならないことは、確かにある。
 
「弱さを受け入れること」と「弱さを受け入れることの大切さを伝えること」。
これを今年の目標にしたい。
 
ひとまず今日から「弱さを知るにはどうすればいいか」のシリーズを書いていこうと思います。

大晦日の夜に何のテレビ番組を見るか問題

安定の『紅白歌合戦』か。
笑って正月を迎えるために『ダウンタウンガキの使いやあらへんで』か。
それとも攻めの姿勢で格闘技か。
 
大晦日のテレビ番組は私たちを毎年のように悩ませる。
絶対的な知能で世界を混沌に貶めた、あの夜神月くんをも惑わせた命題である。
 

f:id:pagonasofa:20161231143606j:plain

(原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健DEATH NOTE』2巻)
 
 
当時大学2年生だった私は、ある挑戦を始めた。
 
我が家はバラエティー番組を見ない。
エンタの神様』も『めちゃイケ』も『M-1』さえも見ていなかった。 
お笑い芸人をほとんど知らないので、仙台に越してきてから
「え、大阪人のくせに知らないの…?」
と白い目で見られることもしばしばである。
 
もちろん大晦日にガキつかを見るなど以ての外で、我が家は紅白歌合戦におさまることが多かった。
しかし、友人が見せてくれる録画のガキ使を見るたびに、私の中には
「リアルタイムでガキつかを見たい…!」
という欲求がふつふつと湧いてきていた。 
しかしそれを阻む我が家の文化。
 
とは言っても両親は紅白歌合戦をどうしても見たいから見ている訳ではない。
他に見るものがないという理由で見ているのである。
 
私は一計を案じた。
 
同じキーワードを繰り返し聞かせ、刷り込みさせるサブリミナル効果を利用した方略である。
私は一週間前くらいから「ガキつかってのが面白いらしいで?」「年末ガキつか何時からかなあ」と、彼らの意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与え続けた…。
 
 
そして迎えた12月31日。
20時までアルバイトがあった私にチャンネル選択権はなく、両親に選ばれた番組を見るしかない。
果たして例年通り紅白歌合戦か。それとも私の策通りガキつかか。
 
ピリピリとした緊張感を持ちながらリビングのドアを開けた私の目に飛び込んできたのは…!
 
 
「親父、何、見てるん…?」
 
 
「ん?アニメのだめカンタービレ総集編やで?」
 
 
くっ…!
な、斜め上をっ…!
 
おとなしく親父とコタツに入ってのだめを見る素敵な年越しをしたのであった。
 

f:id:pagonasofa:20161231144305j:plain

 
ちなみにBSNHKで三部作映画一挙放送をやっているのを知ってからはそれを見るようになった。
 
今年はホビット三部作。
楽しみです。
 

f:id:pagonasofa:20161231144637j:plain

 
皆さま、よいお年を。

夜行バスでこんなにも美味しいコーヒーを飲んだのは生まれて初めてです。

夜行バスの隣の席の人に、あまり良い思い出がない。
 
歯を真っ平らに削ることに至上の価値を見出したかのごとく激しく歯軋りする人。
夏の暑い車内の環境にはどう見ても適応しそうになく、座席からはみ出す巨漢の人。
それでなくとも窮屈で過ごしにくいバスの中で、彼らのような人が隣だとなかなか寝付けない。
 
今は実家の大阪行きのバスの中。
隣に座っているのは、車内でもサングラスを外さない、革ジャンに黒パーカーを合わせたいかにもHIP-HOPなイカつい兄やんである。
彼が悠々と缶コーヒーを飲む隣で私はプルプルしているのである。
 
 
パーソナルスペースの概念に従えば、家族・恋人と接するのに適した「自分の半径45cm以内」にバスの隣の人はゆうに入る。
にもかかわらず、私は彼らを自分の世界とは関係のない異物と捉えている。
「どんな人か」など考えず、「私が快適に過ごせるかどうか」の基準でしかその人を見ない。
 
これはバスの中だけに限ったことではない。
普段暮らしていて、自分の知らない人の人間性に思いをはせることも、つながりを感じることもあまりない。
もし周囲にいたとしても自分1人しかいないような感覚で過ごすことが多い。
電車内で化粧をしたり、知人と話している時は柔らかい顔になるが1人で街を歩いているときは無表情でいたりするのが、いい例だろう。
 
逆に知らない人とつながろうとするとき、私たちはある程度能動的な努力をしている。
友人を増やすためにイベントに赴き、サークルに所属する。
恋人をつくるために合コンに参加する。
 
しかし街を歩けばたくさんの人とすれ違っているはずなのに「居場所がない」「出会いがない」と嘆き、意図的に出会いを生むというのは妙な話である…。
 
 
さっきサービスエリアでトイレに行ったHIP-HOP兄やんが戻ってきた。
どうやらまた缶コーヒーを買ってきたようだ。
 
私が通路側なので一旦立って先に座るよう促す。
 
ん?
 
兄やんが缶コーヒーを私に差し出している。
 
「あ、ありがとうございます…」
「うん」
 
トイレ休憩のたび私が立ち上がって彼を外に出してあげた礼なのかしら…
兄やん…
 
 
寡黙でぶっきらぼうに見えた兄やんの中には、見ず知らずのメガネ坊主に缶コーヒーを奢ってくれる、温かな優しさがあった。
 
それまで異物だった兄やんの存在が、私の世界にグッと入ってきた
私にお礼をしたいという彼の思いが、その缶コーヒーの中にぎゅっと詰め込まれていたからだ。 
思いが見えたからこそ、私は彼につながりを感じた。
 
出会いとは、決して意図的につくるものだけではない。
偶然できる道端の出会いがある。
 
外に出たとき、人とつながろうとする気持ちをシャットダウンしてしまうのではなく、周りの人は自分と地続きのところにいる感覚と、他人の思いを受け止める姿勢を持っておく。
そうすればあなたもHIP-HOP兄やんに出会えるかもしれない。
 
コーヒー美味かったです。
 

f:id:pagonasofa:20161229113401j:plain

「この世界の片隅に」と、東日本大震災と、

1930~1940年代の広島を描いた、こうの史代による日本の漫画作品で、現在アニメ映画が上映されている。
 
※以下ネタバレあります。
 

f:id:pagonasofa:20161224001420j:plain

 
映画の前半では広島県呉市の北條家に嫁いだ、主人公すずののどかな日常が描かれる。
 
道に生えた野草を含む数少ない食材で、できるだけおいしく栄養のある食事を楽しく作ったり、
すず をスパイだと勘違いした陸軍兵を笑い飛ばしたり、
第二次世界戦争は「貧困」や「徴兵」という形で影を落とすも、それは当たり前のものとして生活は進む。
 
声優をつとめたのんの柔かな声もそのゆったりとした空気感 にしっくりと合う。
 
転換となるのはすずの姪、晴美の死だ。
すず と手をつなぎ右側を歩いていた幼児の晴美は、時限爆弾の爆発に巻き込まれ死んでしまう。
その直後訪れる、胸をざわつかせる真っ暗な画面と荒い音声が、前半の空気感を打ち消し、一気にシリアスな展開になる。
 
「左手で晴美さんの手を握っていれば…」というすず の激しい後悔や、
すず を「人殺し」となじる晴美の母径子の怒りに、
私はどうしようもなく心がかきむしられた。
 
 
同じ感覚を、東日本大震災の後、抱いたことがある。
津波で被災した、岩手県の男子中学生を傾聴した記録を読んだときだ。
 
 
自分の中学校は2人が亡くなった。ちか(亡くなった女子)は、地震のとき運動場で見た。
自分は高いとこに逃げたけど、ちかは、じいちゃんばあちゃんをさがしに、マストに行ったか、ふとんをとりに行ったのか、分かんねけど、
波にのまれて、みつからなくて、一昨日、安置所で焼けどで顔も見られん姿で、みつかった。
ちかを最後に見たのが…。ちょっと…見てしまったからさ…。

 

 
私は実際に彼に会った訳ではない。
それでも、この言葉を読むだけで「命の失われる恐ろしさ」が私を突き刺す。
この言葉と出会ったからこそ、私は対人援助の世界へ進もうと考えるようになったと思う。 
 
死と出会ったとき、人は命の持つエネルギーを知る。
 そして「死にたくない」と
「大切な人に死んでほしくない」と強く感じる。
 
それがまた自分の生きるエネルギーになる。
 
すず は爆発で右腕を失うも、家族の中に、この世界の片隅に、自分の居場所を見つける。
原爆を生き延びた子どもを家に連れ帰り、ともに「生きる」ことを選ぶのだ。
 
戦争を学べるということはもちろん、ちょっと前を向いてみるキッカケになる、素晴らしい作品でした。