フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

HUNTER×HUNTER ネテロ会長に見る「リーダー論」

アイザック=ネテロ。
冨樫義博の傑作HUNTER×HUNTER』に登場する、数多くのハンターたちを束ねるハンター協会の会長である。 
 

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人知を超えた力を持つプロハンターたちから絶大な信頼と敬意を向けられる彼のそのカリスマ性が最も顕著に表れたのはいつだろうか。
 
 

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圧倒的な強さを見せつけた時か。
 
 

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それとも主人公に厳しくも温かいメッセージを投げかけた時か。
 
 

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はたまたハンターたちが戦闘に用いる「念能力」ではなく、自身に埋め込まれた「爆弾」を用いて命と引き換えに難敵を倒すという、ミッションのためには手段を選ばないプロ意識が表れた時か。

 

ここでは敢えて、ネテロ会長の人事配置に対する意識を取り上げたいと思う。
 
 
ハンター協会の副会長は会長の指名で決まる。
 
組織は大きくなればなるほど、例えリーダーであっても自分の意見を通すためには時間と手間がかかる。
逐一所属メンバーの承認をとらなければならないし、反対意見だって出る。
そんな中、もし副会長がイエスマンであれば、リーダーは自分の意見をより通しやすくなり、思うように運営ができるようになるはずだ。
 
しかしネテロ会長は、優秀かつネテロ会長に心酔するハンターではなく、あえて自分の意向に沿わないパリストン=ヒルを選出する。
 

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底の見えない狡猾さと周囲を振り回す策略ぶりから、抑止が効かない「怪者(けもの)」と評されるパリストンを、なぜ会長は副会長に指名したのか。

 

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今「男性の男性による男性を考えるための勉強会」を主宰する市民団体、Re-Design For Men(https://www.facebook.com/RDFM0625/)の代表を務めているのだが、全国でも数少ない男性のための活動ということと、大切な縁もあって、せんだい男女共同参画財団主催のジェンダー論講座に、ゲストとして話題提供をする機会があった。
 
活動を始めたきっかけや、活動内容、それを通して見えてきた男の課題など、30分ほどお話しさせていただいた。
 
それが思いのほかウケがよかった。
十数人の受講者の方々は、笑い話には笑顔で応じ、深刻な話には深く頷いてくださった。
話し終えた時には拍手までいただいた。
 

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自分の話を、自分の始めた活動を複数の人に評価されるのはなかなか気分の良いものだ。
調子乗りな関西人の気質も相まって、話しているうちに
「俺って実はすごいんじゃね? 世の中変えちゃうんじゃね?」
という尊大な自意識が私の中にむくむくと湧いてきた。
 
先駆的な活動家として名を馳せ、いつかは「プロフェッショナルとは…」と語る番組に…☆
 
が、、よくよく考えれば、私が話した内容は単純なことである。
活動もまだ始めて半年しか経っていない。
 
自分の中に名声欲がジワリと潜んでいることに気づいた。
 
名声欲は行動の原動力にはなるが、それが先行してしまうと本来の目的をはずれ、自己本位になってしまう。
元々素晴らしいビジョンを持っていたのに、その欲に呑まれたために周りの人たちを置き去りにしたリーダーも何人か見てきた。
 
私も「男性とその周りの人たちが生きやすくなる」というビジョンを見失い、既存の参加者が満足していないのに活動規模を広げたり、参加者の意向を無視してメディア露出をしたりするかもしれない。その可能性がある。
 
そんな時、リーダーの暴走を止めるブレーキ役が組織の中には要る。
「ちょっとちょっと、ぼくら置き去りにされてまっせ」と言ってくれる存在だ。
 
その役目はリーダーの意見に常に従うイエスマンでは務まらない。
リーダーと対等な関係で、かつ思っていることを素直に言ってくれる存在でなければならない。
 
さらにリーダーとメンバーの意見が違えば、それだけ組織としての戦略は多様になる。
リーダー+イエスマンだけの組織が持つ戦略は1つだけだ。
 
だからこそ、ネテロ会長は“最も苦手なタイプ”であるパリストンを副会長に指名した。
 
リーダーの一声で動く機動力のある組織か、リーダーの暴走を止め、かつ多様な戦略をもつ組織か。
私はできれば常にパリストンのいる後者の組織作りを心がけたい。
 
「心」Tシャツ買おうかな。

ぼくらを襲う近代的呪いの正体を暴く

このブログを始めてから、2ヶ月が経った。
 
ありがたいことに様々なコメントをいただいているが、一度だけ否定的なコメントをされたことがある。
幽遊白書」という少年漫画を引用した私の記事に対し、
 
「聞かれてもいないのに勝手に話して。これだから漫画マニアは…」と。
 
発信者が複数の人たちから激しく非難される炎上と違い、匿名の、たった1人にだけ、しかも
「そもそも聞かれてもいないことをブログ執筆者が書くのは当たり前では…」
と突っ込みたくなるようなコメントである。
 
だが、それでも通知が来た瞬間、私の心はビクリとし、ドロッとした自己否定感が残った。
どこの誰か分からない(しかも思慮の浅い)その言葉がなぜ私を恐れさせるほどの負のエネルギーを持つのか。
 
思想家の内田樹先生はネット上の貶下的言説は本質的に「呪」であると主張する。
 
「呪」は呪詛するもの自身には直接的利益をもたらさない。
けれども、他者が何かを失い、傷つき、穢されることは彼らの「間接的利益」に計上される。
・・・
「呪い」は「批判」ではない。その二つは別のものである。
・・・
言うまでもないことだが、言説の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について高い頻度で適切な判断を下してきたという「通算成績」に担保されている。
 
私たちが他人の発言に説得されるのは、言説の「単品」としてのコンテンツの整合性を尊ぶからではない。
そうではなくて、これまでの長い年月を通じて、その人が積み重ねてきた言動から推論できる判断の「適切さ」である。
・・・
ふつうは発信者が何者であるかについての情報が豊かであればあるほど言説の信頼性は高まる。
「批判」が「批判」として機能するのは、固有名と生身の身体を持った個人が「自分の言葉の責任を引き受ける」と誓言するからである。

 (内田樹鷲田清一『大人のいない国』)

 

「これだから漫画マニアは…」コメントの主がもし、ネット世界への漫画流出を憂う大物漫画家か、はたまた漫画などというフィクションを否定し続ける生粋のリアリストブロガーであれば、
「ああ…なんて浅はかなブログ記事をアップしてしまったんだろう…」
と私は嘆き、後悔したかもしれない。
 
しかし相手は匿名である。
 
内田先生は続ける。
 
「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しないが、「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する。
・・・
呪いの効力はそれが誰の、どのような怨念から由来するものなのか「わからない」という情報の欠如に存している。
だから、「呪い」の発信者はその身元を明かさない。
呪いの発信者の実名が知られるとき、呪いは効力を失う。
発信元がわかった時点で、自ら発した「呪い」はまるごと発信者に戻ってくるからである。
…呪いの言葉を書き連ねる人々は、自分の名が知られたときに、どれほどの制裁を受けることになるか知っている。
 
顔も名前もわからないどこかの誰かが、私のブログ記事の内容に何かの理由で憤慨し、憎しみを抱いているとしたら…。
 
その揶揄はまるで死角から飛んでくるナイフのように、「わからない」からこそここまで私を脅かしたのだ。
 
しかしもし相手が大物漫画家でも、リアリストブロガーでもない一般的な人で、
「今日仕事で上司に怒られてむしゃくしゃするぜえ…」とか
「『幽遊白書』俺まだ読んでないんだよ!」とかいう気持ちでこの否定的コメントを書いたということがわかれば、私はこんなにも嫌な気持ちはしなかっただろう。
 
時には人を自殺に追いやる否定的コメント(=呪)を減らしていく方法として、内田先生は言論の自由の再定義を唱える。
 
言論の自由があるから何を言ってもいい」ではなく、「言論とはそもそも聞く相手がいて成り立つものだから、発信するときは相手への敬意を持たなければならない」という社会的合意を形成することが必要だという。
 
私はそれに加え、‟他者が何かを失い、傷つき、穢されるという「間接的利益」”という嗜好を持ってしまった不健康な人たちをサポートすることを考えたい。
 
「『幽遊白書』やっぱり面白そうだな!ぜひ読もう!☆」と思えるような。
 
それには「自尊感情」がキーワードになると思う。
それについてはまたいつか書きます。
 
難しいテーマゆえ、投稿した暁には皆さんぜひご「批判」ください。

 

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

いちご100%と不寛容のはなし

人が不寛容になるときはいつか。
 
楽しみにとっておいたアイスを家族の誰かに食べられていた時か。
履いたばかりの靴下に水滴がついて履き替えようかどうか迷う時か。
どうしてもコーヒーが飲みたいのに、あと1円足りなかった時か。
 
私の場合、少女漫画に登場するイケメンたちの極端に自意識過剰な言動を見た時、強く表れる。
 

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(藤村真理『きょうは会社休みます。』1巻/田之倉 悠斗)

 

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八田鮎子オオカミ少女と黒王子』4巻/佐田 恭也)

 

「たぶん俺のこと好きですよ」
「いつ好きになるかは 俺が決める」
 
それらの言葉に彼らの自信はとめどなく溢れ、「だいたいの女性は俺のこと好き」ベースで話が進む。
 
まだある。
壁ドンやスキンシップ、イケメンたちの女性たちのパーソナルスペースへの侵入は留まることをしらない。
 

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 (マキノ『黒崎くんの言いなりになんてならない』/黒崎 晴人)
 

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咲坂伊緒アオハライド』6巻/馬渕 洸)
 
※念のため「これ、いいの!?」と思っている女性免疫のない男性に注意しておくと、これらの行動は下手すると犯罪なので気をつけてほしい。
 
こんな彼らに出会ったとき私は
「こんな自信を持てるほどカッコいい男、いるはずない」
とつっこまずにいられない。
 
そしてそんな彼らの言動にトキメク読者たちに
「もうちょっと現実を見るべきでは」と言いたくなる。
こう考えている男性陣は多いのではないだろうか。
 
しかし、私と同じように少女漫画に不寛容な男たちに言いたい。
 
私たちは昔「いちご100%」を読んでいなかったか…?と。
 
 
2002年から2005年にかけて週刊少年ジャンプに連載された河下水希の「いちご100%」は、主人公の少年が突然複数の美少女からモテ始めるという要素に加え、パンチラや水着など少しエッチな描写がちりばめられた、少年誌向けラブコメディの金字塔的作品である。
 

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中学生の頃どれだけ読み込んだかわからない。
しごきのように厳しい剣道部の練習の前に、友人が持ってきてくれたいちご100%をみんなで部室で黙々と読み、なんとかモチベーションをあげていたのだ。
 
この作品に出てくるメイン女性キャラは東城 綾西野つかさ北大路さつきの3人。
それぞれ三者三様の容姿と性格を持ち合わせ、もれなく可愛いという設定だ。
 

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河下水希いちご100%』/東城 綾)

 

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 (同上西野つかさ真中淳平

 

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(同上/北大路さつき
 
彼女たちに同時にアプローチされるという、男子にとって超ご都合主義的な設定に、初心な少年だった私たちのテンションがあがるのは必然だった。
 
 
しかし、こんな男性にとって都合の良すぎる女の子が実際にいるだろうか。
 
そもそも主人公が突然モテだす設定事態が非現実的ではないか。
 
 
そんなことはわかっている…。
わかっているんだ…。
 
現実ではあり得ない…とうすうす感じながらも、私たちは主人公に自分を投影し、もし付き合うとすればあの娘がいいな…と馬鹿な妄想を繰り広げていたのである。
 
確かに現実的に考えるなら、自意識過剰イケメンやご都合主義ヒロインに憧れるのはおかしいかもしれない。
 
しかし人間には正論で語れない部分がたくさんある。
勘違いもすれば思い込みもする、妄想だってする。
 
そんな人間の、ひいては自分の曖昧さに目を背け、他人に対してだけ正論をふりかざし、「あなたはおかしい」と否定するのはあまりに暴力的だ。
 
「こうした一面は私にもあるかもしれない」と一度振り返ってみることで、私たちはもう少し寛容になれるのではないだろうか。
 
 
ちなみに私は東城さん派です。

スネ毛を語ると人生は開く

私はスネ毛が濃い。
 
肌が白い(美白ではなく病的な白さ)上に濃いスネ毛。
それはもう目も当てられない。
 
「毛の濃い人はちょっと…」
「白い肌に濃い毛は気持ち悪いですよね〜」
という男性ファッション雑誌の「ガールが選ぶ!苦手な男性特集!」に載るその言葉に、私は目の前が真っ暗になった。
いつしか短パンを履くのをやめ、永久脱毛しようかと本気で考えた。
 
そんな絶望の淵に立つ私をすくい上げてくれたのは、以前仕事で関わっていた男子中学生たちである。
 
その日私は7分丈くらいのズボンを履いていたのだが、椅子に座ったときにズボンがまくれ、スネが露わになった。
それに目をやった男子生徒が
「にっしー(私のこと)すげえ!スネ毛がフサフサだ!」と声をあげた。
それに応じるように隣にいた生徒たちも
「ほんとだ!男らしい!」と口々に話し出したのだ。
 
な、なんと素直な少年たち。
 
彼らは目を輝かせて私の生い茂ったスネ毛を眺め、口々に誉めたたえる。
 
調子に乗った私は靴下を脱ぎ、
「実はこんなところにも生えてるんだゼ」と足の甲を差し出した。
 
「すっげえ!突然変異かよ!」「なんだこれ!」
 
ああ……
今まで人に見られることのなかった、むしろ隠してきた私の足の甲の毛が日の目をみることがあろうとは…
 
さて、そろそろ私の身内の方は少々気分が悪くなってきたかもしれない。
しかし私は彼らの言葉で、今まで抱えていたコンプレックスから抜けだすことができた。
 
“ダメなこと”と考えてきたことが、視点を変えれば、別の人の目から見れば違う意味になることは意外と多い。
例えば普段ネガティヴにとらえられがちな「内向的」「仕切りたがり」という性格特性も、視点を変えてみると「慎重」「リーダーシップがある」と見ることができる。
 
誰しもコンプレックスはある。
それを誰にも言えない秘密のこと、として隠そうとするのではなく、あえて話題にし、別の視点を持つ人と語り合うべきかもしれない。
 
その時、あなたの目から見ればねじ曲がったスネ毛も、キューティクルなスネ毛になるはずだ。

ホームの階段で見ず知らずの女性が持つスーツケースを運ぶかどうか問題

先日友人から「ホームの階段で見ず知らずの女性が持つスーツケースを運ぶかどうか」について書いてほしいと依頼があった。
 
シンプルなようで、深く考えてみるとジェンダー問題なども絡む重要なテーマである。
まずその問題点を考えてみよう。
 

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女性を守る、という行為の危険性

 
先日主宰している市民団体で開いたディスカッションイベント「おとこを語るにはもってこいの会」で、「男の優しさ」について話題になったときのこと。
 
「2人で歩いているとき男が車道側を歩くのに対してどう思うか?」
と、参加してくれた私のジェンダー論の師匠に尋ねると、女性である先生は間髪入れず答えられた。
 
「生意気だと思う」
 
さすがである。
 
 
このように思うことに年齢は関係なく、同年代の女性から
「重い荷物を運んでいるときに男性に手伝われるのが嫌だ」
という意見を聞いたことがある。
 
「女性だから」という理由で手助けする行動の裏には
「女性は弱く、男性によって守られるべき存在である」
というメッセージが潜んでおり、ややすれば女性の尊厳を否定する行為になってしまう。
 
また私は重い荷物を持っているのが、桐谷美玲ならマッハで助けたくなる衝動にかられるが、女子プロレスラー北斗晶ならおそらく助けないだろう。
 
文字に書き起こすと一種の体型差別と言われても仕方がないような話である。
 
以上を踏まえると、女性の荷物を持ってあげるという行為は、一見単純な優しさのようで、差別につながる大きなリスクを孕んでいる。
 
 
西野カナ系女子とSMAP系男子の邂逅
 
とは言っても男性に守ってほしいと思う女性も多い。
ここでは彼女たちのことを仮に西野カナ系女子と名付けよう。
 
たまには旅行にも連れてって
記念日にはオシャレなディナーを
柄じゃないと言わずカッコよくエスコートして
広い心と深い愛で全部受け止めて
 
これからもどうぞよろしくね
こんな私だけど笑って許してね
ずっと大切にしてね
永久保証のわたしだから

 

2015年に発表された西野カナの代表曲「トリセツ」。
‟男性になかなか理解してもらえない女性の内面、乙女心を『取扱説明書』になぞらえて描いた”というその歌詞には、「男性に大切にされたい」というメッセージがちりばめられている。
 
週間オリコンチャート6位に入ったことなどから考えても、男性への期待感(ややするとプレッシャー)を強く持つ西野カナの思想体系を支持する女性が一定数存在していることがわかる。
 
さらに、女性を守りたいという男性も確かに存在する。
こちらは仮にSMAP系男子と名付けよう。
 
失ったものは みんなみんな埋めてあげる
この僕に愛を教えてくれたぬくもり
君を守るため そのために生まれてきたんだ
あきれるほどに そうさ そばにいてあげる
眠った横顔 震えるこの胸 Lion Heart

 

「らいおんハート」は2000年に発表され、ミリオンセラーを達成したSMAPの楽曲で、こちらは「女性を守りたい」ということが強く主張されている。
女性と歩くときは意識的に車道側を歩いてしまう私にもSMAP系男子の要素がある。
 
西野カナ系女子とSMAP系男子。
守る/守られるという基準において、両者の需要と供給はピッタリと合致する。
相手が西野カナ系女子ならば、荷物をかわりに持ってあげるという行為は、きっと喜ばれるだろう。
 
女性の尊厳を軽視することにつながるリスクを回避するのか。
それとも相手が西野カナ系女子であることを期待し、リスクをとってでも荷物を持ってあげるのか。
はたまた性別とは違う基準で助けるかどうか考えるか。
そもそも何も考えないか。
 
それはもう個人の裁量で決めればいい。
 
 
こじらせ系の出現
 
しかし話はそう単純ではない。
 
「ホームの階段で見ず知らずの女性が持つスーツケースを運ぶかどうか問題」を複雑化させる存在がいるからだ。
それが西野カナこじらせ系女子と、SMAPこじらせ系男子である。
 
こじらせ系とは、「トリセツ」と「らいおんハート」を信奉するあまり、その歌詞を個人の意見ではなく、人間全員に当てはまる一般論と勘違いしてしまった人たちのことである。
 
彼らは「てかカノジョの鞄持ってあげない男とか、ありえなくね~?」
 と、自分の価値観を他人に押し付け、個人の選択の自由を侵害するという困った性質を持っている。
 
彼らの主張によって広まった「男性は女性を守るべきもの」という風潮は、私たち男をからめとり、
「女性の鞄をもたない男はダメなんだろうか…?」
という不安を呼び起こす。
 
そのせいで周りの目を気にして、「ホームの階段で見ず知らずの女性が持つスーツケースを運ぶかどうか」についてその都度深く悩まなければならないのだ。
 
 
守りたい人を…
 
冒頭で紹介したディスカッションイベントで、別の女性に
「2人で歩いているとき男が車道側を歩くのに対してどう思うか?」
の質問をしたところ、
 
「男性にされてどう思うかはともかく、自分の子どもと歩いている時、私は必ず車道側を歩く」
 
という答えが返ってきた。
 
「守りたい」「助けたい」という気持ちは本来他人に強要されるものではない。
 
自分が守りたいと思う人を守る。
それは個人が自由に選択していいはずだ。
 
ちなみに私は性別でも、体型でもなく、その人が「困っているかどうか」という基準で選んでいきたい。
 
尋ねてみて、「手伝って下さい(HELP!)」と答えるビートルズだとわかって初めて、私はその人のスーツケースを運び出す。

feedback or egoism -あなたはロケットか、それとも芸術家か-

“フィードバックとはロケットのようなものである”
と何かで読んだことがある。
 
ロケットには、地面に対して垂直にまっすぐ飛ぶよう調節するためのフィードバックシステムがついており、少しでも曲がりそうなら軌道修正するらしい。
 
人間も周囲からのフィードバックを得ることで真っ直ぐ成長できる、というわけだ。
 

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例えば高校で初めてテニスを始めた私は、自分のフォームを先輩たちに見てもらい、アドバイスをもらうことでより良いものに修正していた。

 

熟達者や年長者からだけではない。

部下や年下からもらうフィードバックも重要だ。
例えば会社での自分のマネジメントや指導に関して、指導を受けている当の本人である部下からフィードバックをもらい、次に活かすことができれば、それにまさる上達はないだろう。
 
成長や熟達、そして人間関係を円滑に進めるためのツールとして、フィードバックは大きな役割を果たす。
 
 
ではフィードバックを受け取らなければ、人間はよいパフォーマンスができないのだろうか?
 
神戸に住んでいたころ、タナカさんという美容師さんに髪を切ってもらっていた。
基本的に美容院では黙っているほうが多いのだが、なぜかタナカさんとは馬が合い、真面目な話から下世話な話まで(今思えばあんなオシャレスペースでよくあんな話してたな)、色んな話題で盛り上がれるほど仲良くなった。
 
何度目かに訪れた時、
「いつもの感じで〜」とお願いするとタナカさんは真剣な顔で
 
「いや、西井くん。今日はちょっと挑戦してみよう」
と言い出した。
 
新たな髪型にしてみようと言うのだ。
「昨日合コンで会った娘がすごい可愛くてさ〜」
といつもアホな話をしているタナカさんとは打って変わって真剣な表情である。
 
ビダルサスーンアカデミーでの留学経験のあるタナカさんが提案したのはもちろんサスーンカット。
ショートボブの裾をザックリと、厚みを残してラインを出す。
 

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こんな髪型が眉が濃くて唇が厚い典型的平安時代顔の私に似合うのか⁇
とハラハラしながらも、怖いもの見たさとタナカさんの真顔に押し切られ、私は彼の提案を受け入れた。
 
サスーンカットを始めたタナカさんは正に水を得た魚。
 
「西井く〜ん、いいねえ〜〜
い〜いライン出てるよ〜〜」
 
と嬉々として切りすすめていく。
その行程を鏡越しに黙って見守るしかない私は、さながら画家に彩色されるキャンバスのようであった。
 
これは果たしてアリなのか…と戸惑う私を尻目に、タナカさんは出来上がった髪型(作品)に大満足。
「いいラインだね~」と言いながら写真を撮り、Facebookにアップまでした。
 
そんな彼のテンションの高まりを見ていると、最初は似合わないと思ったサスーンカットもなんだか良く思えてきた。
そして何より自分が良いと思うものに突き進む、美容師でありながら芸術家のようなタナカさんの姿勢を羨ましいと思った。
 
エゴイスティックな進め方は一見自分勝手のようだが、時に相手を刺激し、新たな世界を発見させる。
そして相手を巻き込んで素晴らしい結果を残すことがある。
 
効率性を考えるなら真っ直ぐ飛ぶほうがいい。
でも多分、横に飛ぶロケットがあってもおもしろい。

男の居場所のつくりかた(2)「男の勉強会を開くきっかけ」

今、仙台市で月に一回、男性の男性による男性を考えるための勉強会を開いている。

 

「男らしい」というイメージは、私たち男性を鼓舞する一方、そのイメージに縛りつけもする。

男について語り合うことで、「男らしさ」の良い部分は伸ばし、自分や周りの人を苦しめる部分は少しずつ減らしていく。そんな取り組みだ。

 

kainishii.hatenablog.com

 

今回は、なぜこのような取り組みをしようと思ったのかについて書いていきたい。

 

そもそも私は「男らしさ」「女らしさ」などに昔から関心があったわけではなく、学生の頃はいかに女の子にモテるかばかり考えていたと思う。アホである。

 

転機になったのは、勤めていた貧困家庭の子どもを支援するNPOの同僚からもらったアドバイスだ。

 

「これからも対人援助をするならジェンダーを学んだほうがいい」。

 

以前女性センターの相談員として長く働いていた彼女が言うには、人の様々な問題には社会が作り出した性、“ジェンダー”が広く、深く関わっているという。

 

例えばその時関わっていた貧困という問題にも、

・貧困家庭にはシングルマザーが多く、女性の就職が難しいために貧困に陥る

・寂しさを埋めるために交際した男性からDVを受ける

・それを見て育った男の子が周囲に支配的な傾向になる

などの要素が絡んでいる。

 

言われてみれば私自身も、飲み会の場では懐が寂しくても背伸びして女性に奢る習慣や、男は人前で泣いてはいけないという意識があった。

 

何かよく分からない力で制限を受けているのは、悔しい。

 

私の学習意欲に火がついた。

 

ジェンダー論講座」というせんだい男女共同参画財団が主催する市民講座に出てみたり、ジェンダー関連の本を図書館で読み漁ったりした。

 

その中で出会ったのが、京都大学伊藤公雄先生が書かれた「男性学入門」だ。

 

男性学入門

 

1996年という少し古い時期に発行された本ではあるが、男性の自殺率が女性に比べて高いことや、熟年離婚の原因などをデータで明らかにし、男性の問題が社会学の立場から細かく分析されている。それは現代にも通じる内容だ。

 

思えばこの本の中に書かれた

男たちも、そろそろ古い窮屈な〈男らしさ〉の鎧を、それこそ「男らしく」(つまり潔く)脱ぎすてる時期だ、と思う。

そして結論から言うと、〈男らしさ〉ではなく〈自分らしさ〉を追求したほうがいいと思う。

というのも、たぶん、そうすることによって、男たちにとっても「気持ちのいい」「快適な」生活や人生を生み出し、女性と男性のコミュニケーションもより対等で開かれたものになると思うからである。

という言葉が今の活動に生きているように思う。

 

また伊藤先生もメンバーの一員だったメンズリブ(男性解放)研究会という会が以前大阪にあったこともこの本で知った。

「暴力」「父親」「セックス」などをテーマに語り合ってきたこの会が、主宰している男の勉強会のバックボーンにある。

 

ジェンダーの勉強の一環で、とあるDVセミナーに参加したときのことである。

 

そこで私はDV加害者には「周りを支配し、それに従わないものには暴力という手段で従わせようとする」性質があることを学んだ。

 

そして支配とまではいかなくとも、私の中にも「周囲の人よりもなんとしても上回りたい」という思いが潜んでいることに気付き、恐怖した。

 

私の中に加害の種がいることに気づいたのだ。

 

DVを受けないこと、受けた後回復していくことも大切だが、自分の性質を見つめ、自分がDVをしないことも大切なはず。

加害者がいつまでもDVをし続ければ被害者は増え続けるからだ。

しかし、100名ほど参加していたそのセミナーで、男性の参加者は私含め5人程度だった。

 

自分が“男性”であること、それにまつわる苦しさや問題を自分が抱えていることを、私たち男性はあまり自覚していない。

初めて会った男性の方に、男の勉強会や男の問題について説明すると

「ああ、そういう男性の方いますよね~~」

とまるで、他人事のように、自分を棚上げする人が多い。

 

私含め、男性の意識を変えていく必要性を、感じた。

 

そして2016年6月25日。

男性たちの男性性をゆるーく作り変えることを目指す、市民団体Re-Design For Menが生まれた。

 

勉強“会”という形式にしたのは、会社員の友人の

「普段会社の人としか話すことがなく、話す内容も仕事のことだけ…」

という悩みを反映し、仕事以外の男の居場所を作るためだ。

 

居心地良い環境で、のんびりと自分自身を見直す。

おかげさまで勉強会は通算6回開くことができ、リピーターの方も多い。

このままじっくりと息の長い活動をしたい。

 

※ 
今後のスケジュール
12/18(日)18:00-20:00
第6回男の勉強会「男の性欲」
 
次回は第1回男の勉強会について書きたいと思います。
 
市民団体 Re-Design For Men