それぞれの3月11日
今日で6年と1ヶ月。
先月初めて東日本大震災の追悼イベントに参加した。
いくつかのイベントに参加した仲間たちから話を聞いたところ、どうもそれぞれ色合いが違うようだ。
私が参加したところはとにかく楽しくをモットーに、全国から集まった音楽家たちが賑やかに音楽を奏でた。
仮設住宅の自治会長さんからできるだけ賑やかに、と申し出があったらしい。
ここでは3.11にだけたくさんの露天がならび、宗教団体が何かしら催しをしていたそうな。
生徒の7割が亡くなるという甚大な被害の出た大川小学校。
追悼のため頻繁に訪れる来訪者を対応していたのは、なんと遺族だったという。
もちろんしめやかにイベントを行うところもある。
それが多くの人が抱く追悼イベントのイメージだろう。
東北から遠く離れた関西に戻ってくると余計に、東北のことを他人事のように「かわいそうな場所」、3.11は「悲しく落ち込む時間」と連想する空気を強く感じる。
しかし実際には
次を見据えて東北という場を明るく盛り立てようとする人
自分のできることをたんたんと行う人
震災の悲劇を多くの人に知ってもらいたいと行動する人
様々な人たちがいる。
東日本大震災は確かにあった。
しかしそこで時間は止まったわけではない。
人は動き、そして変わる。
勝手なイメージづけで被災地を2011年に封じ込め、彼らの歩みを止めることだけはしたくないと、心から思う。
さて、ここから。
関西に帰って来て、大学院生としての生活が始まった。
それにしてもなんと濃い仙台での2年半であったか。
知り合いのほとんどいない地で、私はかけがえのない経験をした。
対人援助の世界へ足を踏み入れた、貧困家庭の子どもたちとの苦しく、楽しいやりとり。
そして闘争。
からの7ヶ月に及ぶニート。
様々な人たちと出会い、ライフワークにしたい分野を見つけられた市民団体の立ち上げ。
東北での生活の総括になった東北大学学生ボランティア支援室での仕事。
3回くらいキャリアステップを踏んだ。
仙台へ行く前は神戸のアパレルで働いていたので、大学を卒業してから
サラリーマン
NPO職員
大学職員
大学院生
という5つの肩書きを転々としてきたことになる。
古いタイプの職業人に「これだから若い者は堪え性のない…」と言われてももう何も言い返せない。
「ライフワークを見つけたとか言ってまた投げ出すんだろう?」と言われることもあるだろう。
しかしこの右往左往したキャリアを悔やんではいない。
一般企業で働いたから「あ、俺、金儲けあかん」と気づけたし、
NPOで働いたから対人援助をより深めようと思ったし、
ニートをしたから自分のこれまでをふりかえり、これからを見直すことができた。
人生に訪れる分岐点で(というか自分の人生の中に無理矢理分岐点を作って)、その中から1つの道を選んできたからこそ、今の自分がある。
「こうあるべき自分」が最初から決まっていて、それを探し、目指すのではなく、「選択を続けることでできあがる自分」。
人生をうろうろしながらも、とりあえず目指したい方向性は見つけた。
環境もできた。
一通りの知見も得た。
さて、ここから。
ドラマ『カルテット』で知る「ゆるく頑張る力」
ドラマ『カルテット』が終わってしまう。
こんなにも見ていて落ち着くドラマにはなかなか出会ったことがない。
それはまるで低反発枕のように私の心にしっくりとはまり、ほどよく笑い、ほどよくときめき、ほどよくハラハラできる。
※以下ネタばれあり
1.カルテットドーナツホールのもつ「ゆるさ」
彼らの重厚かつ軽妙な演技は大きな魅力で、家族でもない4人が、軽口を言い合いながら楽しそうに食卓を囲むのシーンはその真骨頂だ。
その他にも、ヒヤリとさせられる巻さんのミステリアスさ、雀ちゃんの別府さんへの甘い恋心、そしてゾッとするような有朱ちゃんの小悪魔感。
登場人物たちが独自のキャラクターを生かし、様々なエッセンスをストーリーに混ぜていく。
その土台となっているのは、全編に通底するある種の「ゆるさ」だと私は思う。
弦楽四重奏『カルテットドーナツホール』を組む主要人物4人は、音楽だけで食べているわけではない。
彼らは資産家である別府家の別荘に居候し、それぞれが別に副業をしているか、もしくはしていない。
作品に登場する音楽プロデューサーの言葉を借りるなら四流の奏者である。
「注文にこたえるのは一流の仕事。ベストを尽くすのは二流の仕事。我々のような三流は、明るく楽しくお仕事をすればいいの」・・・「志のある三流は、四流だからね」
(『カルテット』第5話)
しかし彼らには一流奏者への妬みや、奏者としての焦りが見られない。
と言って自分たちに見切りをつけ、プロをあきらめているわけでもない。
奏者としてのプライドを持ち(だから四流と揶揄されるわけだが)、定期的に練習を重ねる。
ただ「ゆるい」のだ。
醸し出す雰囲気が、暮らしが、弦楽器への取り組みが、ほどよく「ゆるい」。
同期が自分よりも出世が早い。
友人がすごくモテる。
高校の同級生が自分の年収の倍稼いでいる。
私たちはあらゆる場面で他人と自分とを比較し、ある領域で相手が自分よりも上にいた場合、劣等感を抱き、相手を恨めしく思ってしまう。
だから青筋立てて自分の限界を超えて頑張ってしまうか、周りと自分を呪ってしまう。
私もなかなかそのパワーゲームの螺旋から降りられない。
プロを目指すもプロになれていない。
でも焦らない。
でも努力はする。
そんな彼らの「ゆるい姿勢」はどこから来るのだろう。
以前教育界で流行った‟ほめてのばす”のように、社会的自尊感情は他人からの評価や他人との比較で風船のようにすぐに膨らんでいく。
一方基本的感情は、
あるがままの自分自身を受け入れ、自分をかけがえのない存在として、丸ごとそのままに認める感情です。よいところも悪いところも、長所も欠点も併せ持った自分を、大切な存在として尊重する感情が、基本的自尊感情です。そして、この感情こそが、自尊感情の基礎を支える大切な感情なのです。
(近藤 卓『子どもの自尊感情をどう育てるか』)
カルテットの第9話で正規職についていないことに後ろめたさを感じるメンバーに対して、巻さんが言ったことわざ「咲いても咲かなくても花は花」は正に基本的自尊感情を表す言葉だろう。
「咲かなければ花ではない」と考えているから私はパワーゲームから降りられない。
また近藤先生はどちらの自尊感情も必要だと主張する。
基本的自尊感情だけが高いと、成長意欲のないマイペースな気質になってしまう。
それより怖いのが社会的自尊感情ばかりが高いタイプだ。
基礎ができていないので、自分の存在価値を高めるのは周りからの評価か優越しかない。
それを得るために、彼らは常に力を抜かずに必死で頑張り続ける。
しかしそうして得た社会的自尊感情は、自分よりも優れた人に出会ったり、失敗したりしたとき、風船がはじけるように簡単に失われてしまう危険性を孕んでいるのだ。
3.ゆるく頑張る力
カルテットの4人は、そのどちらもが高い。
自分たちは‟咲かなくても花であり”、なんなら‟穴が開いているから(ドーナツになって)良い”と自分たちの短所も受け止める。
過去どんなことがあっても今が良いからいい、とありのままの自分を認めている。
一方で自分たちの演奏を褒められれば喜び、そして絶え間ない努力をする。
マイペースでも、張り詰めた風船でもない、「ゆるく頑張る力」を持っている。
ちなみに基本的自尊感情は、身近な誰かと一緒に映画を見たり、ご飯を食べたり、同じ体験を共有する‟共有体験”によって育まれるそうだ。
体験を通して嬉しさや悲しさを一緒に感じ、共有することで、「自分の感じ方は間違っていない」という安心感が生まれる。
その積み重ねによって、「自分はこれでいい」と受け入れることができるのだ。
とりあえず身近な人とレモンをかけた唐揚げを食べて、その気持ちを共有してみよう。
子どもの自尊感情をどう育てるか そばセット (SOBA-SET) で自尊感情を測る
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わたしとアダルトビデオにまつわる真面目なお話
久しぶりの更新だが、性にまつわる話をしたい。
今の日本は性についてオープンではない。
ヘテロ男性のほとんどが日常的にアダルトビデオを見ているにもかかわらず、
昨日の晩何を食べたかは話題にするのに、昨日の晩どんなアダルトビデオを見たかは話題に上らない。
もちろんそこには恥じらいなどがあるのかもしれないが、それ以上に性にまつわるものは「汚いもの」「悪いもの」というイメージがつきすぎているのではないか。
そのため性にまつわる正しい知識を学ぶ機会が、私たちには足りていない。
コンドームのつけ方を学んでいないために避妊ができない。
正しい方法を知らないために刺激の強いマスターベーションを繰り返し、膣内射精障害や、悪くすれば難治性のEDになる。
男性が女性を一方的にせめるAVばかり見て、パートナーと充実したセックスができない。
性的な媒体に何か問題があるのであれば、その消費者たるぼくら男性陣が取り組まなければならないし、
問題がないのであれば、じめじめとした世界から当たり前の営みとして、とらえ直すべきなのではないか。
そんな思いから今週末こんなイベントを、主宰する団体で開催します。
よければご参加ください。
男の討論会「男とアダルトビデオ」
【日時】2017/3/4 (土) 15:30-18:30 (会場受付15:20から)
【場所】エルパーク仙台セミナー室
【定員】30名
【参加費】無料
【申込み】不要 (直接会場にお越しください)
【備考】今回の参加は男性の方に限ります。
【日時】2017/3/4 (土) 15:30-18:30 (会場受付15:20から)
【場所】エルパーク仙台セミナー室
【定員】30名
【参加費】無料
【申込み】不要 (直接会場にお越しください)
【備考】今回の参加は男性の方に限ります。
神輿、獅子舞など、いろんなコンテンツを含んだそのお祭りには「男根崇拝」の時間もある。
男性器をかたどった大きな彫刻に、女性たちが安産を祈念してまたがるのだ。
そこに参加する住民たちの顔は男女問わずとっても楽しそう。
誰にも気負いすることなく、性にオープンになることは、確かにできるのだ。
限界集落から、まちづくりについて考えること。
居住10世帯、高齢化率100%の紛れもない限界集落だ。
先日ボランティアで訪れた。
ナミイタ・ラボという住民たちが集まれる施設で、住民のおじいさんたちがのんびりとまちづくりを考えている。
個人的に「まちづくり」という分野は、何を目的としているのかわからない自称デザイナーたちのなんちゃってイベントにかき回されたり、「雇用促進」や「助成金獲得」など資本主義的な思惑に絡め取られたりして、現地の住民の存在が薄くなっている印象がある。
作物を食べる鹿よけの柵を作り、畑を耕し、夏は海で岩ガキを獲る。
昔からの自分たちの生活を取り戻し、自然環境をいかしてより楽しいものにする。
そのために外部の力をすこし借りる。
なんなら一緒に楽しんでもらう。
そんな住民主体のまちづくりがあってもいいんじゃないか。
そんなふうに思わされる土地だった。
この綺麗な海に、夏、また泳ぎに来たい。
ロード・オブ・ザ・リングに見るイケメンの定義
イケメンとは何か。
イケメンを解説するインターネットページをいくつか読んでみたところ、その意味は多種多様であるらしい。
※以下ネタバレあり
ここからイケメンを選出しようと思う。
正統派イケメン
まず「イケメン」という言葉が「イケてるメンズ」と「面」をかけた言葉であることからわかるように、「ハンサム・美形」という意味で最も多く使われるだろう。
とすれば、オーランド・ブルーム演じるレゴラスは外せない。
ブロンドの長髪。
弓を自在に操り、圧倒的な運動能力を誇るエルフの王子は誰がどう言おうとハンサムである。
清廉すぎて屁もこかないんじゃないかとさえ思えてくる。
イケメンは顔だけではない
別の系統のイケメンもおさえておきたい。
ゴンドールを追われた若き人間の王、アラゴルンだ。
こちらはレゴラスと異なりワイルド系ハンサム。
その圧倒的リーダーシップで皆を引っ張り、使命のためにあきらめない姿は紛れもなくイケメンだ。
夜営するフロドたちを助けに現れるシーンなどイケメン過ぎてもう涙が止まらない。
このアラゴルンは一方でイケメンの定義について重要な示唆を与えてくれる。
え…?この人…本当にあのワイルドイケメンだったアラゴルン?
え?え?
そう。
イケメンは顔だけではない。
髪型や服装、ひげ、メガネなどオプションによってもつくられるのだ。
意外と自分はイケていると思っていたのに、美容院の白いカットクロスをかぶり、メガネを外され、髪の毛を全アップにされると「あれ?意外と俺微妙…」となる現象と同じである。
イケメンは見た目だけでもない
さらにイケメンに関して言及している記事を見ると「見えないところで努力している」という言葉を見つけた。
なるほど。
水上では美しく、水中では必死に足をばたつかせる白鳥のごとく努力する男性はイケメンかもしれない。
そう、つまりサムである。
指輪の魔力にやられて何度もフラフラになっているフロドなど、サムがいなければ指輪を破壊する旅路のかなり前半で息絶えていただろう。
ゴラムに唆されてサムを罵倒しだした時などもうデコピンしてやろうかと思ったくらいである。
年をとっても頼りになる系イケメン
イケメンの用法として「頼りになる」という意味で使われることも多いようだ。
困った時、不安な時、そっと手をさし伸ばしてくれる存在はイケメンだろう。
魔法使いと名乗っているくせに使える魔法は花火と岩砕きだけという、それだけ見ればハリーポッターの足元にも及ばない彼だが、「大きな鷲を呼び寄せる」という強靭な力をごくたまに発揮する。
窮地から脱するときの移動手段として、敗色濃い戦況で大量に現れ敵の軍勢に襲い掛かる戦力として、鷲たちは大活躍するのだ。
「もっと早く呼んでええええええええ!」
「てか鷲さんたち、もうゴールまで乗せていってえええええええ!」
と思わなくはないが、ガンダルフはその力で仲間たちを数ある危機から救ってきた。
イケメンのダイバーシティ化の中で
顔がいい人だけをイケメンと呼ぶ時代は終わったのかもしれない。
『ロード・オブ・ザ・リング』のキャラクターだけでもこれだけのイケメンがいる。
確かに私がレゴラスのようになるのは7回生まれ変わっても不可能だろう。
しかし別の形でイケメンと呼ばれる存在にはなれる可能性がある。
そう考えれば僕らはもう少し生きやすくなるかもしれない。
アカデミックなコミュニケーションに慣れすぎるとデートで使い物にならない
さいきん同僚の大学教員とお昼に行くのが楽しい。
先日は「相模原障害者施設殺傷事件」から「動機は個人の認知の歪みか社会に通底する思想か」という話に移り、「異なる思想が交わらない言論空間の閉鎖化」に発展。
「固定層しか来ないシンポジウム批判」から「路上パフォーマンス」の話に及んだところで休憩時間は終わった。
もちろんラーメンは伸び切っていた。
この話を別の友人にしたら「うわあ…」とかなりひかれた。
答えは出ない。
しかし自分の考えや経験をぶつけ合う刺激的で学びの多いその時間が私は好きだ。
が、そのような会話ばかりしているのもいかがなものか、とも思う。
先日ある女性と食事に行った時のことである。
趣味の話や最近あった面白かったこと、共通の友人の話。
そういった何気ない会話がほとんど出てこないのだ。
なにかと学術的に分析したくなる。
「最近友だちが結婚したがってるんだけどさー、なんか思いきれないらしくてー」
「そもそも結婚という制度はね…」
といった具合である。
頭でっかちな偏屈野郎と言われても仕方のない体たらくである。
刺激的な学術的な会話ももちろん楽しいし大切だ。
しかし、落ち着ける関係の人と、落ち着く会話をすることはもっと大切だ。
同僚とまず天気の話でもしてみよう…。