フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

語りだす男 ― 男性グループという視座 ―

 
「洗濯物を干す男」では私の怒りと加害性を、「殴られる男」では私の被害体験と痛み、そして語れなさについて書いてきた。
こうした経験から、どうやら私の中には2つの規範があることが見えてきた。
1つは怒りや加害性、ひいてはそれをもたらしうる他者を優越したいと思う〈男らしさ〉を否定する規範
もう既に世間的にも家事も育児もしない、女性に対して偉そうにふるまう男性像は否定されつつあるだろう。
 
もう1つは、男たるもの被害を受けたり痛みを感じたりしてはいけないといった、強い〈男らしさ〉を求める規範
こちらはあまり公にはされないものの、未だ私たちの思考や生活に潜んでいる。
よく使う例だが、私はまだ女性と二人で歩いていると車道側に回って女性を守ろうとする。車に轢かれれば男女関係なくケガするにもかかわらず。
 
このような2つの、時に矛盾するような規範によって、男性たちはありとあらゆる感情が外に出てこなくなっているのではないだろうか。
怒り、悲しみ、後悔、痛み、悔しさ、妬み、不安、弱さたちが、吐き出されず、行き場を失う。
そのせいで、それらの感情が一体何によってもたらされるか解明のされないまま、ずっと澱のようにたまり続けていく。
 
例えば私が洗濯物を干すたびに感じていた怒りの感情も、「イライラする私」が悪い、と蓋をされ続け、なんの対処もされぬまま、再び洗濯物を干すたびに暴力を再生産し続けていた。
 
痛みや悲しみ、不安などの感情も、私が「リンチされた情けない私」という否定的な自己イメージをずっと抱えていたように、それは自分の世界の中だけでぐるぐると回り、自分を傷つけ続ける。
 
そんな話を書いてきた。
 
 
規範からのズレ
 
「イライラする私」や「情けない私」など、世間一般からなかなか受け入れられない、そして自分自身も受け入れていない「あるべき男性像(規範)からズレた自己イメージ」を抱えてしまって、どうしようもなくなったり、苦しんでいるのはおそらく私だけではない。
 
また、障害や病気、セクシュアリティ、民族などの分野で、もっと大きなズレを感じ、それこそ生命に関わるような生きづらさを抱えている人たちがいる。
そうした方々の代弁を私はできないし、するべきではないと考えているのでここでは控える。
ただ私が生きてきた「(異性愛の)男性」というジャンルで言うと、
 
力の弱い男
仕事のできない男
経済力の低い男
うまくコミュニケーションがとれない男
性経験がない男
未婚の男
イラ立ってしまう男
体力がない男
背の低い男
髪の毛が少ない男
社交性の低い男
太った男
筋肉のない男
 
様々な規範的男性像からズレた(人によってはズレとは思わないかもしれないが)男性がおり、そしてそのズレと、ズレが引き起こす負の感情を抱いてしまうことはわかる。
 
ただそうした経験や感情は、なかなか公にされず、共有されない。
そしてずっと1人の世界だけでそのズレについて悶々と悩み続けたり、もしくは目を背けたり否定したりして、結果自分と他者を傷つけてしまう可能性がある。
 

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男性グループという視座
 
「ズレ」が語られるためのハードルが高いことは前回書いた。
 
しかし、私の話を黙って聞いてくれる人、そして同じような経験をしてきた人になら、どうやら話せることを私はこれまでの経験から学んできた。
逆にズレがもたらしうる苦しさや怒りが全く理解できず、認めることをしない人がいるコミュニティで語ることはなかなかできない。
「そんな考え方はおかしい」「なんでそんなことで悩んでるの?」などと言われかねないからだ。
 
そう考えたとき、私は語り合いに重きを置いた男性グループに活路を考えた。
 
私が共同で運営している市民団体Re-Design For Menという団体では、基本男性だけで「プライド/劣等感」「親」「アダルトビデオ」「逃げ方」など、様々なテーマについてディスカッションする「男の勉強会」仙台市大阪市)と、非モテ男性たちが自分たちの経験や考えを語る非モテ当事者研究会」大阪市)というグループを開いている。
これまでに合計で通算35回くらい開催し、様々な世代、職業(学生、フリーター、ニートも)、セクシュアリティの方が参加している。
 
 
参加者の同質性
 
非モテ当事者研究会」では、「非モテ(モテない)で苦しいという経験をした男性たちが集まってくる。
そうすると似た経験をした者同士だからこそ、普通の場では出てこない(出してはいけないとされる)願いや痛み、苦労、挫折、ユニークな視点が表れる。
そして「分かる…!」という共感の言葉と、同じ体験をしたからこその笑いが出てくる。
 
こうした共感は、今まで「他の人と違う自分はおかしいんじゃないか」と苦しんできた語り手に「俺だけじゃない」という安心感をもたらす。
これで順調なんだ、と自分の生き方を否定ではなく許容できるようになるのではないか、と考えている。
 
またグループで語り合っていると、規範からのズレとともに、そのズレを無視してなんとか規範的な〈男らしさ〉を維持しようとする自分にも気づいてくる。
1970年代、ウーマン・リブに取り組む女性たちは「個人的なことは政治的なこと」を合言葉に、「CR(意識覚醒)」と呼ばれるグループを行って自分たちの経験を語り、その個別の経験の中に〈女性として生きてきた〉中で経験する普遍的な事象が含まれていることを見出していった。
こうした普遍化の作業、つまり〈男として生きてきた〉中で維持している価値観をあぶりだしていく作業はグループで可能になる。
 
そうして、一人では無視しがちだった自分の中に〈男らしさ〉を見つけ、それによって窮屈さを感じているなら、変えていくべき手掛かりにできる。
まさに私が脱暴力グループの中で、洗濯物を干すときに表れる私の怒りが、〈男らしさ〉から来る敗北感によるものだと気付いたように。
 
以上のように、つながりの力を得て、規範からズレていると否定していた今までの自分と、規範をなんとか維持しようとする自分を、認識し、引き受けることができるようになる。
 
 
参加者の差異性
 
また、参加者は程よく同質であると同時に、程よく差異があることも大事になってくる。
 
例えばグループで1つのテーマについて話しても、似たような認識や経験をする人もいれば、違う人もいるということが徐々にわかってくる。
 
以前「男の勉強会」で、薄毛の問題について話し合ったことがあった。
「風が吹いたとき髪が乱れて、身体が強張るのを感じるんです…」
「周りの目を気にしてしまって、お辞儀をすることもためらわれる…」
という人がいた。その方にとって薄毛は深刻な問題だった。
しかしその輪の中に、髪の毛が少ないにも関わらず、あえてスポーツ刈りにしたスガワラさんという方がいた。彼は頭を撫でながらこう言った。
 
 「だって守るものが一つ減るんですよ? こんな楽なことはないです。」
 
薄毛を深刻に考えていた男性は少しすっきりした顔で帰っていった。
 
こうした参加者同士の差異を知ることによって、絶対だと思っていた自分の規範を相対化する(それが一つ限りの正解ではないと考える)ことができる。
男は髪の毛が多くあるべきで薄毛はダサい、という規範は根強い。
そしてその規範は強く男性たちを縛り付ける。強い規範は「当たり前」として、語られることもない。
それが、語り合いを通して自分とは違う価値観に触れると、「こう考えることもできるのか」と、思考の幅が広がっていく
自分がいかに狭い世界にいたか、ということと、他に多くの選択肢があることが語りを通して見えてくる。
 
そして願わくば参加者の多様性の幅は徐々に広げていくといいかもしれない。
男性グループの場合、多様なセクシュアリティの方が来るようになると、その思考の選択肢はどんどん増えていく。
また、自分の言動が他のセクシュアリティの方を抑圧したり、傷つけたりしたことや、自分はそれをできる権利を持っているのに、相手はその権利を持っていない、というもの(例えば結婚や就労)に気付くこともあるかもしれない。
以前「セクシュアルハラスメント」について取り上げたときも、女性からの声によって、自分が何の気なしに発した言葉が、セクハラであることを認識した参加者の方もいた。
こうした「他者との出会い」を通して、もしかしたら今まで盲目的に他者を傷つけたり抑圧したり無関心でいたりしたかもしれない生き方から、そうでない生き方への可能性が開けてくる。
 
 
自分を更新するということ
 
先ほど男性が車道側を歩くことを、ややネガティブな例として挙げたが、無理に今までの生き方を変える必要はない、と私は考えている。
車道側を歩くことで言えば、(便宜上異性愛カップルを想定するが)女性を守りたいと相手を考えている男と、守られたい女性のカップルで、その状況に満足しているなら、特に問題はない。(逆もまたしかり)
 
しかしこうした関係性や、こうあるべきという規範のイメージが固定化すると問題がおきやすい。
というか問題が起きたときに、対応することができなくなる。
そして問題を抱えているにも関わらず、今まで維持してきたやり方をそのまま続けてしまうことになる。
 
女性を守り続けるために強くあろうとし続ける男性はどれだけしんどくても弱音を吐けないかもしれない。
守られている女性は、守られる弱い存在であり続けるために、相手にこうしてほしいという要求を伝えることができなくなるかもしれない。
そしてそれは過剰な依存や、暴力を生み出すかもしれない。
 
(※もう少し広い視点で見ると、現在の「男性である層」と「女性である層」、「セクシュアルマジョリティである層」と「セクシュアルマイノリティである層」(この切り分けもかなり乱暴だがここでは異性愛男性が読むことを重視して)の間にも固定的な関係が存在し、それも変えていく必要がある。)
 
規範的な自己イメージの固定化が自分にもたらす悪影響については既に書いた。
 
 
今の自分、今の関係性によって、自分や誰かがつらくなるような事態が起きたとき、それに対応するために、自分を柔軟に更新し続ける必要がある。
その更新の手立てとして、語ること、そしてグループを作ることについて考えてきた。
 
まず、同質性を持つ仲間たちと自分のことを語ることで、規範からズレた部分や、規範を維持しようとする部分を浮き彫りにする。そして自分が今どのような価値観や志向や身体を持っているのか、「自分の輪郭」を把握する。
その上で、差異を持つ仲間と出会うことによって、現時点の自分を更新していく。
今まで身につけてきた〈男らしさ〉をゆっくりと作り変え(Re-Design)続ける。
 
"同じでもなく違うでもない"集団の中で語ることで、自分も他者も傷つけないような新しい男性像を作り上げていく契機は生まれてくる。
 
そのために、私は語りだした。
 
 
※この記事は『非モテの品格 男にとって「弱さとは何か」』(杉田俊介非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か (集英社新書)、『つながりの作法 同じでもなく違うでもなく』(綾屋紗月・熊谷晋一郎)つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)で書かれている内容を参考にしています。
特に『つながりの作法』は語りに重きを置いたグループ活動を始められる方にオススメです。