フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

洗濯物を干す男 ― わたしの怒りの研究 ―

以前地下鉄千代田線の女性専用車両に、複数の男性が乗り込み、その影響で電車が遅延したというニュースがあった。
彼らはあえて女性専用車両に乗り込み、そして依然として乗り続けているらしい。
 
そのニュースを知って以来、彼らがそうした行動を続ける背景には一体何があるのだろうかと考え続けている。
 
私は2年ほど前から男性だけで色々なテーマについて語り合う会を主催してきた。
(市民団体Re-Design For Men「男の勉強会」「非モテの当事者研会」https://m.facebook.com/RDFM0625/
「劣等感」や「親」「アダルトビデオ」「仕事」「モテない悩み」「暴力」など、あらゆるテーマを切り口にして参加者同士で語り合い、私はそこで語られる、様々なエピソードやそのときの感情について聞いてきた。
もちろん背景は様々だしそれぞれ内容が違いはするものの、共通して「男として生きてきた」からこそ表れるものがあるようにも感じている。
 
かく言う私も「男であること(異性愛の)」を自認して生きてきたし、周りからも「男」と判断されていると思う。
だから私にも「男として生きてきた」からこその感じ方、行動のメカニズムがあるはずだ。
 
そうしてぐるぐると考えたことや、私自身のことを文章にまとめたいと思った。
トピックごとに3つに分けて論じ、最後には主催している男性グループRe-Design For Menの理念のようなものにも触れたいと思う。
 
今回とりあげるのは「洗濯物を干すこと」についてだ。
 
 
当時のパートナーと一緒のアパートに暮らしていた頃のことだ。
比較的平和に暮らしていたのだけれど、ただ、私はたまに相手に対してイライラしてしまうことがあった。
それは相手の態度が不愉快だとか、言い争いをしたとかではなく、洗濯物を干しているときに私はイライラすることがあった。
 
これは別に「家事は女性がすべきなのにどうして男の俺がやらなければならないんだ」という典型的な家父長的男性像の話ではない。
私の実家では、両親は共働きで、どちらかと言うと父親のほうが家事をすることが多く、それが当たり前として私は育った。
なので、私は一人暮らしの時はもちろん、同棲し始めてからも、基本的には何の抵抗もなく洗濯物を干していたし、むしろ率先して家事をやっていた。
 
しかし時折り洗濯物を干していてなぜかイライラに襲われることがあった。
 
 
パートナーとも別れ、そんな怒りを当時抱いていたことを、私は次第に忘れていった。
 
今、ちょっとした縁で脱暴力を目指す男性グループに関わっているのだが、先日その会の中で、パートナーとの生活における価値観の違いについての話題になった。
パートナー同士、それぞれの生まれ育った家庭の文化や性格の違いもあるので、洗濯物の干し方や料理の味付けなどにズレが生まれる。それでいさかいになってしまうというようなことだ。
 
その会に参加していた一人の男性がこんなことを言った。
 
「妻がまあズボラ(マメではない)な性格で、使ってない部屋の電気を全然消さないんです。それを何回も注意してもなおらなくてね、仕方なく私が消すんですけどね、そうしたらなんだか負けたような気がするんです。それでイラっとしてもうてね。それをなんとかしようとしてるんです。」
 
この話を聞いて、私は洗濯物を干してイライラしていた時の自分をハッと思い出した。
そして、この〈洗濯物イライラ現象〉は負けたような気、「敗北感」から来ているのではないかと考え始めた。
 
〈洗濯イライラ現象〉と軽く名付けたものの、実はこれは大きな危険をはらむ現象である。
 
いったんイライラが発生し始めると、私は周りが見えなくなり、相手に配慮するという余裕もなくなってくる。
そしてイライラしていることを相手にただ気付いてほしくて、イライラを外に向け始める。音が出るくらい戸を強く閉めたり、明らかに苛立った顔をしたりして、俺は怒っているんだぞ、とアピールする。
それらの行為はモラルハラスメントや、精神的DVだと言える。
 
つまり、敗北感が怒りに、そしてそれが暴力に発展してしまう。
 

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「敗北感」について考えてみよう。
 
前述したように私は普段から家事は普通にやっていた。
ただ、どうやら私はパートナーと私、どちらも余裕がなくどちらかが洗濯物を干さざるを得ない状態で、結果私がやることになったときにイライラしているようだった。
率先してやりたいと思わないときに、そして結果私が洗濯物を干すことになったときに、洗濯物干しをやらされている(もちろんパートナーが強制している訳ではない)と感じる「敗北感」を感じていた。
 
しかし洗濯物を干すことに競争原理を持ち込むとは不思議な話である。
こうして書いていても思うが、合理的に考えればお互いに余裕がないときでも洗濯物は干さないといけないんだから、気付いたほうが干せばいいだけの話である。
別に「俺が洗濯物を干すことになるとは…負けた…」などと考える必要は全くないはずだ。
それに敗北感や、それによる怒りなど誰も抱きたくないだろうし、私も抱きたくない。
 
とすると、私の合理的な考え方とは別に、洗濯物を干すことに敗北感を感じてしまうメカニズムをどこかで学習してしまっている、ということになる。
 
この敗北感の出所はどこなのか。
 
それを考えていくにあたって、ジェンダー論の中で扱われる〈男らしさ〉という概念が使えそうだ。
男性学者の伊藤公雄は、〈男らしさ〉へのこだわりの一つとして「優越志向」という心理的傾向を挙げる。
あらゆる面で男たちは競争することを求められ、知らず知らずのうちに誰かより勝っていたいという競争的な考え方を身に着けてしまっている。
しかもその競争的な傾向は女性に対してより強く表れ、女性よりも"知的にも肉体的にも精神的にも優越していなければ「一人前の男」ではない"とされる、と言うのだ。(伊藤公雄男性学入門』)
 
以前主催する「男の勉強会」で「プライド/劣等感」についてディスカッションしたところ、男性たちがあらゆる尺度で自分や他者を測っていることが分かった。
学歴、スポーツ、職業、収入、結婚の早さ、髪の毛の多さ、背の高さ、社交性、乗っている車…。枚挙に暇がない。
 
また、家族やメディアから「男らしくなれ」と期待される。
そうして自分も「男らしくならなけらば」と考えている。
期待される〈男らしさ〉を発揮できなかったときに「男のくせに」という否定的な言葉を周りから浴びせられる、という話もよく聞くことがある。
 
男として生きてきた私も、そうした競争することを重視する空気を吸い込んできた。
だからこそ、制度面や実際の生活の中では「男女は対等であるべきだ」と考えつつも、心理的には未だに競争の原理や「優越志向」から抜け出していない。
 
※だからといって男性全員が「優越志向」を持っていると言いたいわけではない。私の場合、それがしっくり腑に落ちる、ということだ。
 
 
私の〈洗濯物イライラ現象〉の解明が進んできた。
それは「敗北感」に始まり、どうやらその根源には〈男らしさ〉による「優越志向」がある…。
 
そういえば私は女性と議論をして言い負かされたとき、男性に言い負かされたときよりも腹立たしい気持ちになることがよくある。議論が競争ではなく、自分の考えを更新するための有益な機会だと分かっているにもかかわらず、である。
 
「敗北感」について教えてくれた男性の話を聞くまで、私は自分の怒りがどこから来るのか考えず、そのままにしていた。
怒りとは本当に厄介な感情で、一旦それに憑りつかれると思考がストップしてしまい、怒りから暴力までがワンセットで現れる。
なので本来は「暴力」がいけないはずなのに、「怒り」という感情、ひいては「怒り」を引き起こす考え方自体もひとくくりに悪いとされてしまう。
そう考えている私も、自分が苛立ったことをいけないことだと目をつむり、早く忘れるようにした。
そして何の対処もせぬまま、洗濯を干すたびに、女性に言い負かされるたびに、またイライラするのである。
忘却というかりそめの対処によって、怒りと加害性をずっと持続させてきた。
 
さて、ここまで私の怒りについて考えてきたが、解明したところで何も問題は解決しないように一見見える。
「男として生きてきた」私の過去は動かないし、私の中に染みついた思考のメカニズムを簡単に変えることはできないからだ。
パートナーや女性に対して敗北感や怒りを感じてしまうことは(できるだけなくしていくべきだろうけれど)なかなか止めることはできない。
 
しかし実はここが重要なところで、解明を通して、私の中の変えられない部分(過去や性格)と同時に、というか変えられない部分が見えたからこそ、変えられる部分も見えてくる
 
今までは、それが生じる理由もタイミングもわからないまま訪れて、うやむやのままにされていた「怒り→暴力」のワンセット。
それを「敗北感を感じたときに私はイライラする」と認識することで、暴力的でない他の感情の扱い方の選択肢が現れる。
 
「この状況下では自分は苛立ちやすいからできるだけ人と会ったり何かをしたりしない」
「何かをせざる負えない状況では自分の行動に注意を払う」
「怒りの感情を別のところで発散する」
 
などである。
 
こうして自分の説明ができると、イライラしている自分がいつ現れ、イライラしている自分とどう付き合えばいいかが、分かってくる。
もしかしたら自分の怒りのメカニズムがわかった時点で怒りが湧いてこなくなることもあるかもしれない。
 
こうした研究的に自分を解明することのポイントは2つある。
 
1つは、先ほど書いたように〈男らしさ〉ゆえに敗北感や怒りを抱くからと言って、それを否定しないことだ。否定したところで、怒りの感情がなくなる訳ではない。
むしろ「これくらいで怒る私が悪いんだ」と考えてイライラに蓋をし続けて、暴力的なふるまいを続けていた私のように、暴力を持続させてしまう。
だから私は〈男らしさ〉を安直に批判するだけの主張を良しとしない。
 
2つ目は、〈男らしさ〉ゆえにそうした感情をどうしても抱いてしまうから仕方ないと開き直らないことだ。
 
〈男らしさ〉があることを、怒りの感情をいだくことを、否定するのでも、開き直るのでもなく、引き受ける。その先に変化がある。
 
私たちの感情やひっかかりには、背景に何か理由がある。
それを放っておくのではなく、自分を説明する大切な資源として扱う。
そうして説明ができたら、より良い自分を新たにつくっていく。
 
私の場合、洗濯を干すときに現れたイライラの背景にあるのは、「敗北感」だった。