フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

殴られる男 ― 痛みと語れなさ ―

私の経験などを「男として生きてきた」ことを切り口に書いていく、「〇〇する男」の2つ目の記事になる。
 
前回「洗濯物を干す男」では私の怒りと加害性について扱った。
今回は私の被害経験について書いていきたいと思う。
 
 
先日大学院の心理学の講義で、元受刑者の更生サポートを行う団体のスタッフと、元受刑者の方からお話を聴く機会があった。
元受刑者の方は過去にカツアゲをしたことがあった。
彼はそうして入った少年院での生活について語り、そしてその生活は深い反省にはつながらなかったこと、さらに別の事件をおこして刑務所に入ったことを滔々と語った。
 
少し話はずれるが、罰則を与え、反省を促すだけの現行の刑務所のあり方では、再犯率は下がらないというデータがある。
もちろん、犯した罪は罪として贖うべきだか、それに加えて受刑者たちの再犯を減らしていくためには適切な教育やサポートが必要である、というのが今の犯罪をめぐる議論の主要な考え方だ。
 
大学院で加害者臨床を学ぶ私もそれを頭では理解していた。
しかしどうしても、彼のお話にもやもやする気持ちがあった。
 
 
私には過去にカツアゲ・リンチを受けた経験があった。
 
中学時代、当時通っていた学習塾の前で友人たちが教室から降りてくるのを待っていると、そこに通りがかった5、6人の不良たちに絡まれた。
「メンチを切ってきた(睨んできた)」というのが理由だったが、私にそんなつもりは全くなかった。
 
彼らは私を囲むと、殴る蹴るの暴行を加え、金を要求した。
そして財布を持っていないことがわかると理不尽にも「俺たちを怒らせたことへの謝罪」として土下座しろ、と迫った。
 
殴られて恐怖に縛られた私はそれに従うしかなかった。
 
そして彼らは土下座した私の頭を笑いながら強く蹴り上げた。
 
 
結果、塾の先生が来てくれて解放されたのだが、その経験はいまだに私の中に影を落とし、派手な格好をした男性グループを見るとすくんでしまう自分がいる。
 

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もちろん私をリンチした彼らと、講義に来てくれた方は別人だ。
しかしカツアゲしたにも関わらず、反省をあまりしなかったと言う彼の態度に、(それが刑務所や少年院の実態を表すものだとしても)私は違和感を抱かずにはいられなかった。「ふざけるなよ」という感情さえ抱いた。
 
しかし、その感情がどこから来るのか最初は全然分からなかった。
 
その違和感や気持ちをゆっくりとほぐして、ようやく私は当時の被害経験を思い出した。
中学のとき私を襲い、そして今も私の中で生き続ける、恐怖や、痛みや、悲しみや、悔しさは、どこに向かうんだろうと、やるせなさを感じずにはいられなかったのだ。
こうした気付きを、私の友人が丁寧に聞いてくれた。そうして私はようやく自分の被害を受け止めた。
 
実はこの話はそれまでにも何度か人に話したことがあった。
ただ、「殴られてカツアゲされたけれどポケットには財布じゃなくてミンティアしか入ってなくて不良がキレた」という笑い話にして語ってきた。
私の被害経験ではなく、不良をバカにするネタに変えてきた。
 
そうすることで、私は自分の痛みや辛い感情から目をそらすことができた。
一方的に殴られ、土下座までした情けない自分に向き合わなくてすんだ。
でも底のほうで、情けない自分、という否定的な自己イメージは、ずっと私に取り憑き、ずっと私を否定してきた。
 
 
男は内面を語れない、とよく言われる。
 
20年以上電話による男性相談を行ったきた「『男』悩みのホットライン」の代表で、臨床心理士でもある濱田智崇も、男性たちの中に「弱音を吐くことをよしとしない傾向がある」という(濱田智崇編『男性は何をどう悩むのか』)。
 
私の場合も、情けない自分を受け入れられない〈男らしさ〉がそうさせるのかもしれない。
 
私のような痛みや生きづらさがあるのなら、語っていこうという声を最近よく聞くようになった。
弱音を吐かず、強がり続けるがために、男性は自殺したり過労死したりする。
時に自分の強さを維持するために周りに暴力的に振る舞ってしまう。
だからまず弱さを外に出すことが、〈男らしさ〉から降りることが、重要だと。
 
私もその通りだと思う。
 
しかし、そんな簡単に弱さの語りは出てこない。
 
語るとすると、自分が情けない存在だと認めないといけない。
語ると同情されるかもしれない。
勇気を出して語っても「そんなことで悩んでるのか、男のくせに」と言われるかもしれない。
「皆そうした辛さを持っているんだから頑張ろう」と、問題を矮小化されるかもしれない。
相手に気を遣わせてしまうかもしれない。
 
私の被害の語りも、13年の時を経て、ようやく外に出てきた。
それまでずっと封じ込めてきた。
 
確かに弱さや痛みの語りは他者に受け止められることで和らいでいく。
つらかったな、と言ってもらえるだけで、否定的でないものに変わっていく。
 
私も今回語ったことでだいぶ肩の荷が下りた気がする。
 
しかしやはり依然として男たちが語ることのハードルは高い。
次回はこのハードルをどう超えるかについて、書いていきたい。