フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

大晦日の夜に何のテレビ番組を見るか問題

安定の『紅白歌合戦』か。
笑って正月を迎えるために『ダウンタウンガキの使いやあらへんで』か。
それとも攻めの姿勢で格闘技か。
 
大晦日のテレビ番組は私たちを毎年のように悩ませる。
絶対的な知能で世界を混沌に貶めた、あの夜神月くんをも惑わせた命題である。
 

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(原作 - 大場つぐみ・作画 - 小畑健DEATH NOTE』2巻)
 
 
当時大学2年生だった私は、ある挑戦を始めた。
 
我が家はバラエティー番組を見ない。
エンタの神様』も『めちゃイケ』も『M-1』さえも見ていなかった。 
お笑い芸人をほとんど知らないので、仙台に越してきてから
「え、大阪人のくせに知らないの…?」
と白い目で見られることもしばしばである。
 
もちろん大晦日にガキつかを見るなど以ての外で、我が家は紅白歌合戦におさまることが多かった。
しかし、友人が見せてくれる録画のガキ使を見るたびに、私の中には
「リアルタイムでガキつかを見たい…!」
という欲求がふつふつと湧いてきていた。 
しかしそれを阻む我が家の文化。
 
とは言っても両親は紅白歌合戦をどうしても見たいから見ている訳ではない。
他に見るものがないという理由で見ているのである。
 
私は一計を案じた。
 
同じキーワードを繰り返し聞かせ、刷り込みさせるサブリミナル効果を利用した方略である。
私は一週間前くらいから「ガキつかってのが面白いらしいで?」「年末ガキつか何時からかなあ」と、彼らの意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与え続けた…。
 
 
そして迎えた12月31日。
20時までアルバイトがあった私にチャンネル選択権はなく、両親に選ばれた番組を見るしかない。
果たして例年通り紅白歌合戦か。それとも私の策通りガキつかか。
 
ピリピリとした緊張感を持ちながらリビングのドアを開けた私の目に飛び込んできたのは…!
 
 
「親父、何、見てるん…?」
 
 
「ん?アニメのだめカンタービレ総集編やで?」
 
 
くっ…!
な、斜め上をっ…!
 
おとなしく親父とコタツに入ってのだめを見る素敵な年越しをしたのであった。
 

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ちなみにBSNHKで三部作映画一挙放送をやっているのを知ってからはそれを見るようになった。
 
今年はホビット三部作。
楽しみです。
 

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皆さま、よいお年を。

夜行バスでこんなにも美味しいコーヒーを飲んだのは生まれて初めてです。

夜行バスの隣の席の人に、あまり良い思い出がない。
 
歯を真っ平らに削ることに至上の価値を見出したかのごとく激しく歯軋りする人。
夏の暑い車内の環境にはどう見ても適応しそうになく、座席からはみ出す巨漢の人。
それでなくとも窮屈で過ごしにくいバスの中で、彼らのような人が隣だとなかなか寝付けない。
 
今は実家の大阪行きのバスの中。
隣に座っているのは、車内でもサングラスを外さない、革ジャンに黒パーカーを合わせたいかにもHIP-HOPなイカつい兄やんである。
彼が悠々と缶コーヒーを飲む隣で私はプルプルしているのである。
 
 
パーソナルスペースの概念に従えば、家族・恋人と接するのに適した「自分の半径45cm以内」にバスの隣の人はゆうに入る。
にもかかわらず、私は彼らを自分の世界とは関係のない異物と捉えている。
「どんな人か」など考えず、「私が快適に過ごせるかどうか」の基準でしかその人を見ない。
 
これはバスの中だけに限ったことではない。
普段暮らしていて、自分の知らない人の人間性に思いをはせることも、つながりを感じることもあまりない。
もし周囲にいたとしても自分1人しかいないような感覚で過ごすことが多い。
電車内で化粧をしたり、知人と話している時は柔らかい顔になるが1人で街を歩いているときは無表情でいたりするのが、いい例だろう。
 
逆に知らない人とつながろうとするとき、私たちはある程度能動的な努力をしている。
友人を増やすためにイベントに赴き、サークルに所属する。
恋人をつくるために合コンに参加する。
 
しかし街を歩けばたくさんの人とすれ違っているはずなのに「居場所がない」「出会いがない」と嘆き、意図的に出会いを生むというのは妙な話である…。
 
 
さっきサービスエリアでトイレに行ったHIP-HOP兄やんが戻ってきた。
どうやらまた缶コーヒーを買ってきたようだ。
 
私が通路側なので一旦立って先に座るよう促す。
 
ん?
 
兄やんが缶コーヒーを私に差し出している。
 
「あ、ありがとうございます…」
「うん」
 
トイレ休憩のたび私が立ち上がって彼を外に出してあげた礼なのかしら…
兄やん…
 
 
寡黙でぶっきらぼうに見えた兄やんの中には、見ず知らずのメガネ坊主に缶コーヒーを奢ってくれる、温かな優しさがあった。
 
それまで異物だった兄やんの存在が、私の世界にグッと入ってきた
私にお礼をしたいという彼の思いが、その缶コーヒーの中にぎゅっと詰め込まれていたからだ。 
思いが見えたからこそ、私は彼につながりを感じた。
 
出会いとは、決して意図的につくるものだけではない。
偶然できる道端の出会いがある。
 
外に出たとき、人とつながろうとする気持ちをシャットダウンしてしまうのではなく、周りの人は自分と地続きのところにいる感覚と、他人の思いを受け止める姿勢を持っておく。
そうすればあなたもHIP-HOP兄やんに出会えるかもしれない。
 
コーヒー美味かったです。
 

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「この世界の片隅に」と、東日本大震災と、

1930~1940年代の広島を描いた、こうの史代による日本の漫画作品で、現在アニメ映画が上映されている。
 
※以下ネタバレあります。
 

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映画の前半では広島県呉市の北條家に嫁いだ、主人公すずののどかな日常が描かれる。
 
道に生えた野草を含む数少ない食材で、できるだけおいしく栄養のある食事を楽しく作ったり、
すず をスパイだと勘違いした陸軍兵を笑い飛ばしたり、
第二次世界戦争は「貧困」や「徴兵」という形で影を落とすも、それは当たり前のものとして生活は進む。
 
声優をつとめたのんの柔かな声もそのゆったりとした空気感 にしっくりと合う。
 
転換となるのはすずの姪、晴美の死だ。
すず と手をつなぎ右側を歩いていた幼児の晴美は、時限爆弾の爆発に巻き込まれ死んでしまう。
その直後訪れる、胸をざわつかせる真っ暗な画面と荒い音声が、前半の空気感を打ち消し、一気にシリアスな展開になる。
 
「左手で晴美さんの手を握っていれば…」というすず の激しい後悔や、
すず を「人殺し」となじる晴美の母径子の怒りに、
私はどうしようもなく心がかきむしられた。
 
 
同じ感覚を、東日本大震災の後、抱いたことがある。
津波で被災した、岩手県の男子中学生を傾聴した記録を読んだときだ。
 
 
自分の中学校は2人が亡くなった。ちか(亡くなった女子)は、地震のとき運動場で見た。
自分は高いとこに逃げたけど、ちかは、じいちゃんばあちゃんをさがしに、マストに行ったか、ふとんをとりに行ったのか、分かんねけど、
波にのまれて、みつからなくて、一昨日、安置所で焼けどで顔も見られん姿で、みつかった。
ちかを最後に見たのが…。ちょっと…見てしまったからさ…。

 

 
私は実際に彼に会った訳ではない。
それでも、この言葉を読むだけで「命の失われる恐ろしさ」が私を突き刺す。
この言葉と出会ったからこそ、私は対人援助の世界へ進もうと考えるようになったと思う。 
 
死と出会ったとき、人は命の持つエネルギーを知る。
 そして「死にたくない」と
「大切な人に死んでほしくない」と強く感じる。
 
それがまた自分の生きるエネルギーになる。
 
すず は爆発で右腕を失うも、家族の中に、この世界の片隅に、自分の居場所を見つける。
原爆を生き延びた子どもを家に連れ帰り、ともに「生きる」ことを選ぶのだ。
 
戦争を学べるということはもちろん、ちょっと前を向いてみるキッカケになる、素晴らしい作品でした。

HUNTER×HUNTER ネテロ会長に見る「リーダー論」

アイザック=ネテロ。
冨樫義博の傑作HUNTER×HUNTER』に登場する、数多くのハンターたちを束ねるハンター協会の会長である。 
 

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人知を超えた力を持つプロハンターたちから絶大な信頼と敬意を向けられる彼のそのカリスマ性が最も顕著に表れたのはいつだろうか。
 
 

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圧倒的な強さを見せつけた時か。
 
 

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それとも主人公に厳しくも温かいメッセージを投げかけた時か。
 
 

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はたまたハンターたちが戦闘に用いる「念能力」ではなく、自身に埋め込まれた「爆弾」を用いて命と引き換えに難敵を倒すという、ミッションのためには手段を選ばないプロ意識が表れた時か。

 

ここでは敢えて、ネテロ会長の人事配置に対する意識を取り上げたいと思う。
 
 
ハンター協会の副会長は会長の指名で決まる。
 
組織は大きくなればなるほど、例えリーダーであっても自分の意見を通すためには時間と手間がかかる。
逐一所属メンバーの承認をとらなければならないし、反対意見だって出る。
そんな中、もし副会長がイエスマンであれば、リーダーは自分の意見をより通しやすくなり、思うように運営ができるようになるはずだ。
 
しかしネテロ会長は、優秀かつネテロ会長に心酔するハンターではなく、あえて自分の意向に沿わないパリストン=ヒルを選出する。
 

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底の見えない狡猾さと周囲を振り回す策略ぶりから、抑止が効かない「怪者(けもの)」と評されるパリストンを、なぜ会長は副会長に指名したのか。

 

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今「男性の男性による男性を考えるための勉強会」を主宰する市民団体、Re-Design For Men(https://www.facebook.com/RDFM0625/)の代表を務めているのだが、全国でも数少ない男性のための活動ということと、大切な縁もあって、せんだい男女共同参画財団主催のジェンダー論講座に、ゲストとして話題提供をする機会があった。
 
活動を始めたきっかけや、活動内容、それを通して見えてきた男の課題など、30分ほどお話しさせていただいた。
 
それが思いのほかウケがよかった。
十数人の受講者の方々は、笑い話には笑顔で応じ、深刻な話には深く頷いてくださった。
話し終えた時には拍手までいただいた。
 

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自分の話を、自分の始めた活動を複数の人に評価されるのはなかなか気分の良いものだ。
調子乗りな関西人の気質も相まって、話しているうちに
「俺って実はすごいんじゃね? 世の中変えちゃうんじゃね?」
という尊大な自意識が私の中にむくむくと湧いてきた。
 
先駆的な活動家として名を馳せ、いつかは「プロフェッショナルとは…」と語る番組に…☆
 
が、、よくよく考えれば、私が話した内容は単純なことである。
活動もまだ始めて半年しか経っていない。
 
自分の中に名声欲がジワリと潜んでいることに気づいた。
 
名声欲は行動の原動力にはなるが、それが先行してしまうと本来の目的をはずれ、自己本位になってしまう。
元々素晴らしいビジョンを持っていたのに、その欲に呑まれたために周りの人たちを置き去りにしたリーダーも何人か見てきた。
 
私も「男性とその周りの人たちが生きやすくなる」というビジョンを見失い、既存の参加者が満足していないのに活動規模を広げたり、参加者の意向を無視してメディア露出をしたりするかもしれない。その可能性がある。
 
そんな時、リーダーの暴走を止めるブレーキ役が組織の中には要る。
「ちょっとちょっと、ぼくら置き去りにされてまっせ」と言ってくれる存在だ。
 
その役目はリーダーの意見に常に従うイエスマンでは務まらない。
リーダーと対等な関係で、かつ思っていることを素直に言ってくれる存在でなければならない。
 
さらにリーダーとメンバーの意見が違えば、それだけ組織としての戦略は多様になる。
リーダー+イエスマンだけの組織が持つ戦略は1つだけだ。
 
だからこそ、ネテロ会長は“最も苦手なタイプ”であるパリストンを副会長に指名した。
 
リーダーの一声で動く機動力のある組織か、リーダーの暴走を止め、かつ多様な戦略をもつ組織か。
私はできれば常にパリストンのいる後者の組織作りを心がけたい。
 
「心」Tシャツ買おうかな。

ぼくらを襲う近代的呪いの正体を暴く

このブログを始めてから、2ヶ月が経った。
 
ありがたいことに様々なコメントをいただいているが、一度だけ否定的なコメントをされたことがある。
幽遊白書」という少年漫画を引用した私の記事に対し、
 
「聞かれてもいないのに勝手に話して。これだから漫画マニアは…」と。
 
発信者が複数の人たちから激しく非難される炎上と違い、匿名の、たった1人にだけ、しかも
「そもそも聞かれてもいないことをブログ執筆者が書くのは当たり前では…」
と突っ込みたくなるようなコメントである。
 
だが、それでも通知が来た瞬間、私の心はビクリとし、ドロッとした自己否定感が残った。
どこの誰か分からない(しかも思慮の浅い)その言葉がなぜ私を恐れさせるほどの負のエネルギーを持つのか。
 
思想家の内田樹先生はネット上の貶下的言説は本質的に「呪」であると主張する。
 
「呪」は呪詛するもの自身には直接的利益をもたらさない。
けれども、他者が何かを失い、傷つき、穢されることは彼らの「間接的利益」に計上される。
・・・
「呪い」は「批判」ではない。その二つは別のものである。
・・・
言うまでもないことだが、言説の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について高い頻度で適切な判断を下してきたという「通算成績」に担保されている。
 
私たちが他人の発言に説得されるのは、言説の「単品」としてのコンテンツの整合性を尊ぶからではない。
そうではなくて、これまでの長い年月を通じて、その人が積み重ねてきた言動から推論できる判断の「適切さ」である。
・・・
ふつうは発信者が何者であるかについての情報が豊かであればあるほど言説の信頼性は高まる。
「批判」が「批判」として機能するのは、固有名と生身の身体を持った個人が「自分の言葉の責任を引き受ける」と誓言するからである。

 (内田樹鷲田清一『大人のいない国』)

 

「これだから漫画マニアは…」コメントの主がもし、ネット世界への漫画流出を憂う大物漫画家か、はたまた漫画などというフィクションを否定し続ける生粋のリアリストブロガーであれば、
「ああ…なんて浅はかなブログ記事をアップしてしまったんだろう…」
と私は嘆き、後悔したかもしれない。
 
しかし相手は匿名である。
 
内田先生は続ける。
 
「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しないが、「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する。
・・・
呪いの効力はそれが誰の、どのような怨念から由来するものなのか「わからない」という情報の欠如に存している。
だから、「呪い」の発信者はその身元を明かさない。
呪いの発信者の実名が知られるとき、呪いは効力を失う。
発信元がわかった時点で、自ら発した「呪い」はまるごと発信者に戻ってくるからである。
…呪いの言葉を書き連ねる人々は、自分の名が知られたときに、どれほどの制裁を受けることになるか知っている。
 
顔も名前もわからないどこかの誰かが、私のブログ記事の内容に何かの理由で憤慨し、憎しみを抱いているとしたら…。
 
その揶揄はまるで死角から飛んでくるナイフのように、「わからない」からこそここまで私を脅かしたのだ。
 
しかしもし相手が大物漫画家でも、リアリストブロガーでもない一般的な人で、
「今日仕事で上司に怒られてむしゃくしゃするぜえ…」とか
「『幽遊白書』俺まだ読んでないんだよ!」とかいう気持ちでこの否定的コメントを書いたということがわかれば、私はこんなにも嫌な気持ちはしなかっただろう。
 
時には人を自殺に追いやる否定的コメント(=呪)を減らしていく方法として、内田先生は言論の自由の再定義を唱える。
 
言論の自由があるから何を言ってもいい」ではなく、「言論とはそもそも聞く相手がいて成り立つものだから、発信するときは相手への敬意を持たなければならない」という社会的合意を形成することが必要だという。
 
私はそれに加え、‟他者が何かを失い、傷つき、穢されるという「間接的利益」”という嗜好を持ってしまった不健康な人たちをサポートすることを考えたい。
 
「『幽遊白書』やっぱり面白そうだな!ぜひ読もう!☆」と思えるような。
 
それには「自尊感情」がキーワードになると思う。
それについてはまたいつか書きます。
 
難しいテーマゆえ、投稿した暁には皆さんぜひご「批判」ください。

 

大人のいない国 (文春文庫)

 

 

いちご100%と不寛容のはなし

人が不寛容になるときはいつか。
 
楽しみにとっておいたアイスを家族の誰かに食べられていた時か。
履いたばかりの靴下に水滴がついて履き替えようかどうか迷う時か。
どうしてもコーヒーが飲みたいのに、あと1円足りなかった時か。
 
私の場合、少女漫画に登場するイケメンたちの極端に自意識過剰な言動を見た時、強く表れる。
 

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(藤村真理『きょうは会社休みます。』1巻/田之倉 悠斗)

 

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八田鮎子オオカミ少女と黒王子』4巻/佐田 恭也)

 

「たぶん俺のこと好きですよ」
「いつ好きになるかは 俺が決める」
 
それらの言葉に彼らの自信はとめどなく溢れ、「だいたいの女性は俺のこと好き」ベースで話が進む。
 
まだある。
壁ドンやスキンシップ、イケメンたちの女性たちのパーソナルスペースへの侵入は留まることをしらない。
 

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 (マキノ『黒崎くんの言いなりになんてならない』/黒崎 晴人)
 

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咲坂伊緒アオハライド』6巻/馬渕 洸)
 
※念のため「これ、いいの!?」と思っている女性免疫のない男性に注意しておくと、これらの行動は下手すると犯罪なので気をつけてほしい。
 
こんな彼らに出会ったとき私は
「こんな自信を持てるほどカッコいい男、いるはずない」
とつっこまずにいられない。
 
そしてそんな彼らの言動にトキメク読者たちに
「もうちょっと現実を見るべきでは」と言いたくなる。
こう考えている男性陣は多いのではないだろうか。
 
しかし、私と同じように少女漫画に不寛容な男たちに言いたい。
 
私たちは昔「いちご100%」を読んでいなかったか…?と。
 
 
2002年から2005年にかけて週刊少年ジャンプに連載された河下水希の「いちご100%」は、主人公の少年が突然複数の美少女からモテ始めるという要素に加え、パンチラや水着など少しエッチな描写がちりばめられた、少年誌向けラブコメディの金字塔的作品である。
 

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中学生の頃どれだけ読み込んだかわからない。
しごきのように厳しい剣道部の練習の前に、友人が持ってきてくれたいちご100%をみんなで部室で黙々と読み、なんとかモチベーションをあげていたのだ。
 
この作品に出てくるメイン女性キャラは東城 綾西野つかさ北大路さつきの3人。
それぞれ三者三様の容姿と性格を持ち合わせ、もれなく可愛いという設定だ。
 

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河下水希いちご100%』/東城 綾)

 

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 (同上西野つかさ真中淳平

 

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(同上/北大路さつき
 
彼女たちに同時にアプローチされるという、男子にとって超ご都合主義的な設定に、初心な少年だった私たちのテンションがあがるのは必然だった。
 
 
しかし、こんな男性にとって都合の良すぎる女の子が実際にいるだろうか。
 
そもそも主人公が突然モテだす設定事態が非現実的ではないか。
 
 
そんなことはわかっている…。
わかっているんだ…。
 
現実ではあり得ない…とうすうす感じながらも、私たちは主人公に自分を投影し、もし付き合うとすればあの娘がいいな…と馬鹿な妄想を繰り広げていたのである。
 
確かに現実的に考えるなら、自意識過剰イケメンやご都合主義ヒロインに憧れるのはおかしいかもしれない。
 
しかし人間には正論で語れない部分がたくさんある。
勘違いもすれば思い込みもする、妄想だってする。
 
そんな人間の、ひいては自分の曖昧さに目を背け、他人に対してだけ正論をふりかざし、「あなたはおかしい」と否定するのはあまりに暴力的だ。
 
「こうした一面は私にもあるかもしれない」と一度振り返ってみることで、私たちはもう少し寛容になれるのではないだろうか。
 
 
ちなみに私は東城さん派です。

スネ毛を語ると人生は開く

私はスネ毛が濃い。
 
肌が白い(美白ではなく病的な白さ)上に濃いスネ毛。
それはもう目も当てられない。
 
「毛の濃い人はちょっと…」
「白い肌に濃い毛は気持ち悪いですよね〜」
という男性ファッション雑誌の「ガールが選ぶ!苦手な男性特集!」に載るその言葉に、私は目の前が真っ暗になった。
いつしか短パンを履くのをやめ、永久脱毛しようかと本気で考えた。
 
そんな絶望の淵に立つ私をすくい上げてくれたのは、以前仕事で関わっていた男子中学生たちである。
 
その日私は7分丈くらいのズボンを履いていたのだが、椅子に座ったときにズボンがまくれ、スネが露わになった。
それに目をやった男子生徒が
「にっしー(私のこと)すげえ!スネ毛がフサフサだ!」と声をあげた。
それに応じるように隣にいた生徒たちも
「ほんとだ!男らしい!」と口々に話し出したのだ。
 
な、なんと素直な少年たち。
 
彼らは目を輝かせて私の生い茂ったスネ毛を眺め、口々に誉めたたえる。
 
調子に乗った私は靴下を脱ぎ、
「実はこんなところにも生えてるんだゼ」と足の甲を差し出した。
 
「すっげえ!突然変異かよ!」「なんだこれ!」
 
ああ……
今まで人に見られることのなかった、むしろ隠してきた私の足の甲の毛が日の目をみることがあろうとは…
 
さて、そろそろ私の身内の方は少々気分が悪くなってきたかもしれない。
しかし私は彼らの言葉で、今まで抱えていたコンプレックスから抜けだすことができた。
 
“ダメなこと”と考えてきたことが、視点を変えれば、別の人の目から見れば違う意味になることは意外と多い。
例えば普段ネガティヴにとらえられがちな「内向的」「仕切りたがり」という性格特性も、視点を変えてみると「慎重」「リーダーシップがある」と見ることができる。
 
誰しもコンプレックスはある。
それを誰にも言えない秘密のこと、として隠そうとするのではなく、あえて話題にし、別の視点を持つ人と語り合うべきかもしれない。
 
その時、あなたの目から見ればねじ曲がったスネ毛も、キューティクルなスネ毛になるはずだ。