何かが失われたときの‟ざらり”としたような
中国地方から遠く離れた仙台にいても、ざらりとした心持ちがする。
熊本の時も、気持ちが落ち着かなかった。
東日本大震災が起こったとき、
関西にいた私は、津波が町を襲う光景をテレビ越しに
人ごとのようにぼんやりと眺めていたと思う。
しかし5年前ボランティアで訪れた被災地陸前高田で、
家もビルも駅も、線路さえも、もう何もかもがなくなってしまった地を見たからか。
避難先の山の上ではなく、家族に会いに行くため家に戻り、
津波にのまれてしまったクラスメイトを遺体安置所で見つけた男子生徒の話を聞いたからか。
自分が住んでいた町が
何気なく話していた人が
当たり前の日常が
失われる恐ろしさを、想像するようになったからか。
他県といっても日本という同じ土地の上で、多くが失われることに、失われるかもしれないことに、
何かがつっかえたような
ざらり、ざらりとした気持ちが湧く。
この気持ちを受け止めながら、
できるだけ失われるものが減っていくように願いながら、
たぶん今の私は生きている。