フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

「女性に否定的なかかわりをされること」の解像度を上げる ―「負の性欲」言説への批判的応答―

0.はじめに
 現在「負の性欲」という言葉がTwitterで拡散されている。元になったTweetを見たところ「遺伝的に劣った男性に対して女性が抱く嫌悪感や拒否感」を意味するらしいが、科学的な裏付けは特にない。
 確かに「女性から否定的なかかわりをされる」という現象はぼくたち男性の身にしばしば起こる。しかし、ある場面では否定的なかかわりをされても、ある場面では否定的なかかわりをされない場合も当然ある。だとすれば、まるで女性が普遍的に「負の性欲」を持っていて一部の男性を常に嫌悪・拒否すると考えるのはいささか安易だろう。

 行動が起こるには、それが生じるまでの過程にいくつかの要素が介在している。例えば「朝パンを食べる」という行動について考えてみる。前日アルコールを飲み過ぎて胃もたれしていればなかなかパンを食べようとは思わない。家にパンがなければパンは食べられない。そもそもその地域にパンを食べる文化がなければパンを食べるという発想自体生じない。
 出来事、環境、社会・文化など多くの要素を経て、ようやく行動は生起する。それは女性の男性に対する否定的なかかわりも同様だ。だとすれば、まずぼくらがすべきは「負の性欲」という不明確な理屈に自分たちの不遇の説明を託すことではなく、否定的なかかわりが生起するまでの間に介在するものを言語化していくことだろう。
 そこで、本稿では男性の視点に重きを置きながら、「女性に否定的なかかわりをされる」という事態がなぜ起きるのかを可視化させていきたい。

※「負の性欲」言説が異性愛をもとに展開されていることを受けて、ここでは異性愛男性に焦点を当てて記述する。

1.他者との交流機会の格差
 まず、女性に否定的なかかわりをされるためには、女性と出会うという段階が必要になる。女性と交流がなければ否定されるということはそもそも起こらない。ただ、他の男性に比べて女性との交流機会が少なければ、まるで自分だけが避けられているような否定感を感じることがあるかもしれない。しかしその場合「否定的なかかわり」ではなく「交流機会の少なさ」を問題として俎上に上げるべきだろう。
 男性の中でも特に、学校や職場で隅に追いやられるタイプの周辺化された男性というのは、それだけで他者と交流する機会が少なくなる。女性を含め、他にも隅に追いやられた人もいるのだが、なぜか彼らは出会わない。周辺化されバラバラにされているのである。周辺化された女性も同様で、彼女たちは男性と出会わない。異性同士で交流するのはなぜか学校で中心にいるメンバーに限られている。
 ある種の権力構造が彼らをバラバラにしており、だとすれば、周辺化された男性は女性に拒否されているのではなくて、拒否される前から出会う機会から疎外されていると言ったほうが正確だろう。

2.距離を取られる
 出会った後に否定的なかかわりをされる場合を考えてみよう。まず「否定的なかかわり」と一口に言っても様々な様態があることを押さえておく必要がある。ここでは「距離を取られる」「拒否される」「被害を受ける」という3つに場合分けして考える。

2-1.「男性」という属性への忌避
 男性が何ら行動をとらずとも距離を置かれることがある。例えば相手の女性がそれ以前から何らかの理由で「男性」という存在に拒否感を持っている場合がある。性暴力や虐待、セクシュアルハラスメントなどの被害経験があるかもしれない。明確な被害経験はなくとも、社会に蔓延する女性蔑視的な風潮の影響もあるかもしれない。そうした背景をもとに、「男性」に対する警戒心や恐怖心ゆえに、その関わりを避けることがありうる。

2-2.関係性の文脈から考える
 また、いったいどういう場面で出会ったのかということも拒否を考えるうえで考慮にいれる必要がある。例えば合同コンパ、婚活パーティーなど、恋愛、とくに結婚を将来に見据えて出会った場合ならば、一部の男性から距離をとる女性はいるだろう。それを「負の性欲」と呼んでいるのだという批判が出てきそうだが、これはあくまで「結婚」という部分的な文脈の上で距離をとっているので、まるで女性が日常的に一部の男性を嫌悪しているかのような「負の性欲」という言葉は適切ではない。
(※結婚という文脈においても、外的な条件のみで男性を判断しない女性は少なくないということも補足しておく。)

2-3.お互いの持つ世界がずれている
 政治、思想、価値観が違うという場合もある。あまりに主義思想が異なれば、性別関係なく私たちは相手と距離を置くということを日常的に行っているだろう。
 また、学校というコミュニティで考えた場合、「スクールカースト」が女性との関係性を阻害することがある。仲間の男性のエピソードを紹介する。

大学1回生のとき同じクラスになったきれいな女性に話しかけたりしたんですけど、反応が微妙でした。後からぼくが「カースト」を認識できていなかったなと、気づいたんです。その女性はめっちゃモテる人で、そういう人にとって、服装もダサいし空気も読めないぼくに話しかけられるのは嫌だったのだと思います。だから話しかけても冷たい反応をされて、それからは話しかけませんでした。

 この女性は、服装やコミュニケーション能力、運動能力、友人の多さなどによって構成されたヒエラルキーを内面化し、そして周囲の目を意識して、彼と関わることを避けている。本来ならば、私たちは自由に関係性を築けるべきだが、学校という閉鎖的なコミュニティで作られた規範が邪魔をしている。もちろんこれは男-女、男-男、女-女の関係でも同様のことが起こる。

2-4.こちらの行動が問題を孕んでいる
 女性と交流した後、こちらのかかわり方に問題があったために相手が離れていったというケースはよく耳にするし、ぼくも経験がある。いくつか例をあげてみたい。

相手を侮っている
・物言いが高慢
・しったかぶり
・からかいのような発言をする
・「言ってることわかる?」などと確認する

性的な話題に触れる
・相手の身体を話題にする
・下ネタを会話に挟む

 こうした関わりによってすぐに距離を置かれるということは少ないかもしれない。しかし、ジワジワと相手に疲労を蓄積させ、結果相手が距離を置くということが起こる。
 そして相手に引かれた、冷たい態度をとられた、という場合に最もよく聞くのが、女性との関係をすぐに性的なものに持ち込もうとしたケースである。その多くは、例えばクラスメイトという関係から、上司部下という関係から、仕事仲間という関係から、その関係性の文脈を無視して、一足飛びに性的な関係へと発展させようとしてしまうことによって生じている。
 まず前提として、女性との関係性をすべて性的な関係に持っていく必要はない。それに、性的な関係でなくても女性との豊かな関係をつくり相手と充実した時間を過ごすことは可能だし、その関係はぼくらにとっても大きな財産になる。そのことを踏まえた上で、それでも相手と恋愛関係になりたいと思うのであれば以下のことに気を付ける必要がある。
 日常的な関係性から性的な関係へと発展するには、それ相応の「間」が存在する。相手に認識してもらうことから、会話を何度か重ねること、2人の時間を共有することなど、いくつかの段階を踏んだ先にようやく恋愛的な関係性に発展するということが起きうる。その「間」を考慮せずに性的な関係へと唐突に持ち込もうとしたときに、相手から距離を置かれることがよく起こる。なぜか。
 自分自身の体験を振り返るならば、クラスメイトに恋心を抱いたとき、まだ「間」を埋めるようなコミュニケーションをする前から、ぼくは頭の中で「間」を埋めるコミュニケーションを夢想していた。その夢想はとても楽しいもので、何度も何度も「相手とこんな会話をしている」ことを考えていたように思う。その結果、まだ付き合っていないということはわかっているが、相手とぼくの関係性は今後恋愛的ものへと発展していくような謎の自信を身に着けていた。(やばい。)
 実際にお互いの間でコミュニケーションがあったわけではないので、相手からすれば当然「クラスメイトの関係性」のままである。しかしぼくの頭の中では「性的な関係性」へと発展していたのである。この認知的な不一致が「一足飛び」なアプローチを生じさせ、相手を困惑させたのではないかと思う。

3.拒否される
 【2-4】で触れた、「日常的な関係性を性的な関係へと一足飛びに還元する」ことの結果として、男性は拙速なアプローチへと進むことがある。それは相手に受け入れられることはあるかもしれないが、たいていうまくいかず、結果的に断られることになる。そしてそのアプローチが、同意のない身体接触やストーキングなどの加害的な行為へと発展した場合、明確な拒否を示されるだろうし、時に「キモイ」という否定的な言葉を伴うこともある。

4.被害を受ける
 最後に女性からの被害についても検討したい。ぼくも特に親しくもない女子クラスメイトから身なりをからかわれた経験があるが、ルッキズムや男らしくない男を馬鹿にする風潮を内面化して、「キモイ」などと男性を虐げる女性は残念ながらいる。(もちろん女性だけに限らず男性にもいることは間違いない。)
 しかしそれは「負の性欲」などという生物学的な装いをもつ表現ではなく、明確に「加害」と言うべきだ。なぜなら、「遺伝的に劣っているから女性は加害をする」という理屈は、結局「加害されるほど劣っている自分が悪い」という自己否定的な論理を導いてしまう。また、「負の性欲」の論理は、加害者だけでなく不必要に女性全般にまでその責任を拡大させてしまう。加害は加害者に責任がある。どのような理由があろうと加害をしていい理由にはならないという当たり前の考えを、ぼくらは改めて持っておくべきだ。男性としての見栄も邪魔して、女性から受ける加害は加害として認識しづらい。しかし、もし何の脈略もなく暴言を吐かれたのであれば、「性的に嫌われている」などではなく「被害を受けた」と申し立てていいと思う。

 

5.まとめ
 本稿では、「女性から否定的なかかわりをされる」ことの解像度を上げ、「出会う機会が少ない」「距離を取られる」「拒否される」「被害を受ける」という4つの様態を論じた。現在Twitterで広がっている「負の性欲」にかんする議論は、この4つがすべてごちゃまぜになってなされている。特に、女性が男性を拒否する時と加害を加える時、どちらも「キモイ」という同じ言葉が使われることがあるため、余計に事態をややこしくしているのかもしれない。
 「負の性欲」言説は、「女性はこういうものだから自分は何をしても仕方ない」というある種の諦念を男性たちに与えている点、女性が「拒否」に至るまでの過程を不可視化させている点、負の性欲を向けられる自分が悪いという自虐を男性にもたらす点に問題がある。しかし、ここまで整理してきたことを踏まえれば、「女性からの否定的なかかわり」に対して私たち男性は、自らを諦めたり自虐したりするのではなく、女性との豊かなかかわりを築く余地と、加害に対して丁寧に批判していく余地が十分に残されている。
 ひとつは、「距離を置かれる」「拒否される」ことを避けるために、女性とのかかわり方を変化させることだ。侮らないこと、性的な関係性にすぐ還元しないことなどを考慮すれば、女性と豊かな関係性を築く可能性は開かれる。もうひとつは、きちんと被害を被害として受け止めることだ。そのことを自己卑下的に解釈する必要はない。その傷つきをうやむやにせず大切にすることが、私たちのためになっていく。

 「負の性欲」言説は「女性の否定的なかかわり」の原因をすべて女性の欲望というものに押し込めることで、ぼくら男性の溜飲をさげさせる機能を果たしているのかもしれない。しかし、もっと丁寧に自分の不遇に向き合い、正確に自分を慰めるべきだ。よくわからない言葉に巻き込まれて自分自身を諦めるようなことを、ぼくらはしなくていい。