フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

「モテる」の再考〜「イケメンだから許される」は本当に「イケメン」だから「許されて」いるのか?~

主催している男性の語り合いグループ「ぼくらの非モテ研究会」(以下、非モテ研)で来週行われるイベントに向けた思いのようなものを書いておこうと思う。
https://kokucheese.com/event/index/566119/

これまで非モテ研は「モテ」を目指すものではないと謳ってきた。
ではなくて、「モテたい」と思う気持ちに焦点を当て、なぜ過度に「モテたい」と思うのか、その気持ちが高じて苦しくなってくるのかを当事者研究という手法を用いながら仲間たちと探求してきた。
またその結果として、「非モテ」男性にはいじめやからかい、パワハラ、無視などの被害を受け、集団から疎外された経験があったことがわかってきたため、互いにケアし合うグループとしても発展してきた。
とは言うものの、非モテ研は恋人ができることを否定する立場はとっていない。リア充爆発しろとは思っていない。
仲間の中にパートナーのいる人もいるし、恋をすることで幸せになったという人もいる。想いを寄せる人と付き合ってみたい、モテてみたいという気持ちは、否定されるべきではないだろう。

さて、しかし問題はその「モテ」というものの中身である。
本論では、男性たちが想定する「モテ」を批判的に論じ、次回のイベント「MAを学んでモテを目指そう!」の意義を最終的に提示したい。

非モテ」はどの性別にもまたがる現象ではあるが、私自身がシス・ヘテロ男性当事者であるという理由から、ここでは「非モテ男性」は基本的にシス・ヘテロ男性を想定する。ただ男性自認のある方に当てはまることも多いかもしれない。


「モテる」は何を指しているのか
私たちが「モテる」と聞いてイメージするものはどういったことだろう。
複数回交際したことがある、同時に複数の恋愛関係がある、告白されることが多い、セックスした回数が多い、といったようなことだろうか。
社会的な規範、特に男性規範の中で性的な経験が豊富であることは価値のあることだと見なされ、男性たちにとってこれらの「状態」にいることは理想であると位置付けられる。

しかし、実際私が「モテる男」という「個人」を連想するとき、羨ましさとは別に怒りや憎しみのような感情が渦巻く。

彼らに対するこうした負のイメージは何によってもたらされているのか。

電波男』を著した本田透は、「モテる男」について、女性を独占する存在として描き、怒りをぶつけている。(ただ、この怒りは女性を記号化する女性蔑視的なものであることを付記しておく。)
しかし私の場合、もっと直接的に私を含む周囲の人間をからかい、揶揄する存在としてイメージされる。つまり、異性との関係が密であるという要素に加え、権力性や加害性を持っているという要素を「モテる男」に見ている。

私が想定する「モテる男」(≒集団の中で権力を持つ男)について、社会学者である貴戸理恵の著書『コミュ障の社会学』に、それを言い当てたエピソードが書かれている。少し長いが引用する。

クラスにAさんという男性学生がいた。他の学生たちからは、「Aはこのクラスでの発言力が大きい」と言われていた。…Aさんはよく喋った。教師の言うことを茶化してみんなを笑わせる。女の子をからかってちょっと怒らせてみたりする。されたほうは、笑いながら「もーうるさい!」などと言い、それを見たみんなが笑う。…「コミュ力が高い」人というのは、こちらが相手の「ノリ」を尊重せざるを得ないような「空気」をいつの間にか教室に充満させるのがうまい。…そのうちに雲行きはあやしくなっていく。Aさんは、「美人がいれば学校も楽しいのになー」などと言う。「夜道を歩くのが怖い」と言った女の子に、「おまえは心配いらないだろ」と絡んだりする。さすがに私は介入する。…それが、「おー、先生に怒られちゃった」という笑いになる。「いやー俺じゃないっすよ。言ったのはコイツ」とそばにいた別の男の子を指して、また笑いにもっていく。言われた女の子も、他の女の子たちも、「コイツ」と言われた男の子も笑っている。これは何なのだろう。

Aさんの発言は言うまでもなく女性差別である。
クラスのような密室的な空間の中では、コミュニケーション能力や容姿、運動能力などの基準によってヒエラルキーが生じる。
Aさんのようなヒエラルキーの上位にいる男性はその能力と覇権を用いながら、他者をからかい、同時に指摘を上手くすり抜けて自身の加害性を隠蔽する。
さらに注目すべきは他の生徒たちである。差別的発言を受けた女子生徒までもが、Aさんの作り出した「空気」に乗って笑っている。
まるでAさんは何をしてもいい存在のように見えるが、この状況を単純に彼のふるまいが「許されている」ととらえるのは早計だろう。
なぜなら、Aさんに揶揄された女性や、いじられた男子生徒が「空気を読まず」彼に歯向かった場合、その集団から排除される恐れがあるからだ。彼のふるまいに傷ついたとしても上手くかわさなければならないのだ。

また被害を受けた側が権力勾配を内面化して加害者の主張を正しいと思い、からかわれている状態を無自覚に正当化してしまうことがある。
以前私は勤めていた企業で上司から深刻なパワハラ被害を受けていたが、受けていた当時、加害をする上司ではなく、仕事のできない自分が悪いと思いこんでいた。
そして権力を持つ彼にいかに気に入られるかばかりを気にして、彼の言う冗談にたいしておおげさに笑い、からかわれても笑顔で応えていた。しかも無理にそうしていたわけではなく、からかわれることに喜びさえ感じていた。
外面的に私と上司の関係は良好に見えていたかもしれないが、私は無自覚的に、そして確実に傷ついていった。

権力構造の只中にいる場合、権力を持つ者が正しさをつくり、抑圧される者はそれに従わざるを得ない、もしくは無自覚に従う構図ができあがる。
私の「モテる男」に対する怒りは、彼らからのからかいによる傷つきと、彼らの持つ権力性ゆえに、傷つきを言葉にすることを封じられたことに端を発しているではないかと考えている。


抑圧されていたにもかかわらず。
さて、ここまで権力を持つ男性を批判的に論じてきた。それは権力を持たず集団の中で周辺化されやすい「非モテ」男性には縁遠い話に読めるかもしれない。
もちろん「モテる男」に権力を付与する社会規範は解体されるべきだろう。
だが私は「ほら、やっぱりモテる男はクソじゃないか、徹底的にぶっ潰したほうがいい」ということだけを主張したい訳ではない。
事態はそう単純ではない。

問題は、権力を盾に女性を悪しざまに扱い、いい気になっている男性に怒りを感じていた半面、私は彼を「モテる男」だと認識し、憧れのような感情も持っていたということだ。
非モテ男性が「モテ」を志向した時、彼をロールモデルにしてしまい、その差別的な関わりを女性と関わる際のお手本として学習してしまう危険性に着目しなければならない。

周囲からからかわれることが多く、時にいじめられることもあった中学・高校を経て、大学進学と同時にいじられキャラを脱した私は、今度は周囲をからかう側に回るようになった。
あろうことかサークルの後輩にセクハラ発言浴びせるようになり、しかもそうしたふるまいができることを「かっこいい」と思っていた。

集団の中で周辺に追いやられた男性が、その集団内の権力構造によって抑圧されているにもかかわらず、同時に権力を志向する。

このメカニズムが具現化した典型として「恋愛工学」がある。
恋愛工学はある種のナンパ術であり、女性と親密な関係性が築けず自信を失った男性たちの関心を集めている。
しかし恋愛工学には女性差別的な思想が通底している。女性を下に見てコントロール化に置こうとする姿勢が端々に表れている。
哲学者の森岡正博は論文『 「恋愛工学」はなぜ危険なのか 』の中でその事実を指摘し痛烈に批判している。
http://www.lifestudies.org/press/rls0801.pdf

非モテ男性も権力構造にからめとられ、時にそれを志向する可能性があり、その点で権力性と無関係とは言えないだろう。

ここでタイトルに記載した「イケメンだから許される」というフレーズについて考えたとき、字面通りの意味とは別の読み取り方が立ち現れる。
「イケメン」と言われる男性の層と権力性に裏打ちされた「モテる男」の層は少なからず重なる。集団内では容姿の優れた者が人間として優れていると見なされうるからだ。(だからといってイケメンが皆、性差別的だという訳ではない。)
そしてここまで論じてきたように、権力性に裏打ちされた「モテる男」は、差別的なかかわりをしたとしても、その権力性ゆえにその行為は許容される。
正確に言えば、権力性をもって被害者を黙らせることができる。
その一方で、権力を持たない男性が権力を持つ男性に憧れ、同じように差別的なかかわりをした場合、もちろん糾弾されることになる。
結果として、権力を持たない男性は許されず、権力を持つ男は許される(ように見える)。
「イケメンだから許される」ということの内実はこのようなことではないだろうか。


新しい「モテ」へ
だからと言って、糾弾されないために権力を持て、と男性たちに言えないし、言うべきではない。

学びを通して私は自身の加害性を内省し、過去セクハラ発言を浴びせてしまった後輩のもとを訪れ謝罪した。
彼女は当時は笑顔でやり過ごしてはいたが、本当に嫌だったと教えてくれた。

だとすれば、すべての男性たちは権力性を帯びた「モテ」を決して目指すべきではない。からかい、揶揄、性差別的な関わりを捨て、女性に苦痛やためらいや我慢を抱かせない、オルタナティブな「モテ」を構成していく必要がある。

例えば先述した森岡は『草食系男子の恋愛学』の中で他者理解に重きをおいた恋愛のあり方を書いている。
また、何が相手の尊厳を傷つけることになるのか、どうすれば対等かつ友好的な関係を築けるのか、その具体的な知を身につける必要があると私は考えている。
何がセクハラになるか分からないと言って閉じこもるのでも、女性への恨みをため込むのでもない。
積極的に他者との対等な関係を築いていく方法はないか。
マイクロアグレッション(MA)という概念は、その鍵になるのではないかと思う。

権力性に裏打ちされた「モテ」から、対等な関係性を目指す「モテ」へ。
今回のワークショップはその第一歩になればいいなと思う。
興味のある方はぜひご参加ください。