フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

インポテンツ、棺桶、チキンラーメン ~焦点化されなかった東日本大震災〜

「おにーちゃんにだけ言うけどね、俺ね、今70(歳)でしょ。で、震災から6年か。6年間、64(歳)からもう1回もたってないんだよ。」
 
——え、たつ…?
 
「下半身のあれね、勃たなくなってね、はっはっは(笑)」
 
——震災の影響で、ってことですか?
 
「それはわからんけどね。年かもしらんし。
まあもう使うこともないけどね(笑)」
 
 
2017年、当時仙台のある大学に、ボランティア学生支援スタッフとして雇われていた私は、学生とともに東日本大震災の被災地各地を回っていた。
これは岩手県陸前高田市の復興住宅の集会室で、学生と企画したカフェに訪れた住民の男性から聞いた話だ。
 
彼は自分の男性器が勃起しなくなったことを、笑いながら、そして少し寂しそうに語った。
私が男で、しかも学生ではなく職員という立場だからこそ話してくれたのかもしれない。
(それとももしかしたらそういう話を言いやすい空気を私は醸し出しているのだろうか?)
 
「おにーちゃんにだけ」というのがどれだけ本当か分からないが、インポテンツ(勃起不全)がレッテルを貼られて語られる風潮を考えれば、なかなか人にさらけ出せる内容ではないだろう。
それがふと、たまたま復興住宅の集会場を訪れた若い男に、ぽろっとこぼれ落ちた。
 
 
石巻のある小さな仮設住宅にもよく訪れた。
住民交流に熱心な自治会長さんと元気なおばちゃんたちが、いつも私たちをあたたかく迎えてくれた。
その中の1人のおばちゃんが、手芸をしながら震災当日のことを教えてくれた。
 
「3月11日の前の日、だから10日ですね。お父さんが亡くなって。
地震が来たときちょうどお棺を運んでるときだったんですよ。
それで大きく揺れたでしょ。棺桶が川に落ちてしまって、途中の木に挟まったんです。
下の方だから取りに行くこともできなくなって。
 
そうしたら、その後自衛隊の人が来て、『誰か落ちたんですか⁉⁉』って。
『あ、お父さんが…』って言ったら、拾いに行ってくださったんですけど、自衛隊の人も『あれ?棺桶?』って感じでね…。
なんかこっちも気まずくて…。
これ笑っちゃいけないんですけどね。なんかちょっと…やっぱり可笑しいですよね(笑)」
 
2人で笑っていいのやら神妙な顔をすればいいのやら、妙な空気になったのを覚えている。
 
 
そのような被災地を回る仕事をしてます、とある日、行きつけの美容院のおにいさんに話すと、普段寡黙なおにいさんが震災当時のことをぽつぽつと語ってくれた。
 
「僕は仙台市内ですからね、揺れはしましたけど、そんな危険はなかったんで危機感も薄かったですねー。
停電もしばらくしたら回復しましたし。
あ、でも食べ物は困りましたね。みんな買われてましたからね。
まあこのままだと困るなーってことで、ふらふら食べ物を探すために散歩に出たんです。」
 
——なんか、ほんま危機感ないかんじですね(笑)
 
「だいたいみんなそんな感じでしたよ。なんとかなるかーって感じで。
2、3時間歩いて店まわったんですけど、なかなか見つからなくて、家に戻り始めたんですけど、家からすぐのところに古い雑貨屋を見つけたんです。
それまでずっと暮らしてきて全然気付かなかったんですけど、あったんですね。
 
何かあるんじゃないかと思って、いろいろ物色してたら、チキンラーメンがあって。
店のおばちゃんに『おばちゃんこれもっとある?』って聞いたら他の在庫もあって。
おばちゃんもそれ食べるからって言うんで、半分だけ買わせてもらって、6パックくらいだったかな。それで帰ってきたんですよ。
 
その後よくパッケージ見たら、賞味期限1年くらい過ぎてたんですよ(笑) やばいですよね(笑)」
 
なんだかんだ食事はどうにかなったという。
 
 
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震災当時石巻市に暮らしていた友人から、津波で自分のペットが死んだことを震災後2年経ってからようやく語り出せた、という話を聞いた。
家族や近しい人を亡くした人がいる中で、ペットの死はなかなか口にできなかったそうだ。
 
被災地では、被害状況の差によって、住民間に溝が生まれたという。
「おたくはまだ家残ってるしね。」といった具合に。彼女もその溝に苦しんだ。
同じ東北に住む人々の中に、「被災者」という枠がいつの間にか形成され、その線引きをめぐって様々な葛藤が生まれた。
 
そしてその線引きに、東北の外部にいる私たちも加担している気がしてならない。
 
現地を訪れた人はより「被災地的」なものを見たがり、ボランティアは現地の人により「被災者的」な話を聞きたがる。
外部者は東北により「被災」を求め、自分の中にある「被災」のイメージを押し付けていった。
メディアで1年に1回取り上げられる東日本大震災特集は、重いテーマばかり抽出して放映する。
学生時代ボランティアとして訪れた私も、住民の方から深刻な話を聞いたとき、どこかでそれを誇っていたところがあった。
 
外部者が「被災地は可哀相な土地」だと位置づけているから、悲劇のストーリーばかりが取り上げられるのか。
それとも人間にはそもそも悲劇を求めてしまう習性があり、そのせいで「被災地は可哀相な土地」と位置づけられるのか。
どちらが先かはわからない。
 
しかし、どちらにしろ、こうした外部のまなざしは、現地の人に無用な圧力と分断を生み出し、
そして何より東北で起こったことの全体像をうやむやにしてしまう。
私たちは「東日本大震災」の局所的な部分しか把握できなくなってしまう。
 
それが東日本大震災や東北を「知った」ことになるだろうか?
知らないままに「忘れない」なんてことはありえるだろうか?
(そもそも自分を「外部」と言っていること自体が、分断を起こしていないだろうか?)
 
深刻な話だけが東日本大震災や東北の現状を表すのではない。
勃たなくなった男性器も、川に落ちた棺桶も、賞味期限の切れたチキンラーメンも、東日本大震災の1つだ。
 
外部に住む私たちは、現地で見たこと聴いたことをひとつひとつ刻み続けていく。
彼らの顔を思い出しながら、ふとそんなことを考えたりする。