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フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ガッキーの『恋ダンス』に見る固定的笑顔の恐怖

私は藤原紀香を見たことがある。
 
2011年5月。
震災ボランティアで訪れた岩手県陸前高田市の避難所に、赤十字の広報特使である彼女が支援で来ていたのである。
避難所は大盛り上がり。
じっとりとした空気の漂う空間がパッと明るくなったようだった。
 
 
その一方で私は彼女に恐れも感じていた。
 
避難所に現れ、被災したおばあさんにハンドマッサージをし、ボランティアとも交流する間、彼女の笑顔は全く崩れないのである。
もしかしたら張りついているのではないかと思うくらい持続する彼女の笑顔に、ぞっとした記憶がある。
 
同じ違和感を、一世を風靡したドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の『恋ダンス』を踊る新垣結衣にも密かに感じている。
 
 
ちゃーららららら…♪
いーとなみの まちがくれたらー
 
から
 
ひーとりをこえてゆけ
…ちゃららららっちゃららっちゃら〜ちゃーちゃーちゃ♪
 
まで。
 
 
彼女の笑顔は全くもって崩れない。
それなりに動きのあるダンスにも拘わらず彼女の口角は上15度をキープし続ける。
本編では「私はひらまささんが1番好きですけど…」
などの台詞で心を鷲掴みにされるわけだが、それとは裏腹にエンディングでは彼女のその固定した表情に、心が冷やされていくのである。
 
 
おもしろいのはエンディングで『恋ダンス』を終始無表情で踊っている星野源にはそんな違和感は感じないということだ。
 
つまり私は「楽しいこともおもしろいことも起こっていない状態で維持される笑顔」に対して不自然さを抱いている。
その笑顔はまるで能面のように、その人の生の表情覆い隠し、結果、その人の人間らしさが損なわれてしまっているように感じてしまう。
 
また、心から楽しいとき、心から愛しいものに出会ったときの笑顔に比べ、その能面の笑顔とでもいうべき笑顔は、投げやりなコミュニケーションのようにも感じられる。
相手がどんな言動をとってもとりあえず笑っとけばいい。笑顔でいれば失敗することはない。
といったような、コミュニケ―ションの相手を舐めたようなコミュニケーションの取り方を、心が受け付けない。
 
 
こう見ると笑顔という表情は「記号」になっているような気がする。
 
自分の中の感「情」が「表」に出るくる、結果的なものではなく、
明るい状態を示す記号として使用される。
 
‟愛嬌とは自分より強い敵を倒すための柔らかい武器”と夏目漱石が言ったように、確かに笑顔は円滑な人間関係をつくるための手段になり得る。
しかしそれをコントロール下に置きすぎると、自然に起こる笑顔を次第に忘れ、表面的なコミュニケーションしかとれなくなるのではないだろうか。
たとえそうならなくとも、常に笑顔でいる人に対し、周りの人はその人が本当に喜んでいるのかどうか分からず困惑してしまい、どちらにしろ充実した信頼関係は築けなさそうだ。
 
もちろん『恋ダンス』を踊る新垣結衣は、望んで口角を上げ続けているわけではないだろう。
しかし世間が彼女に対し「明るい状態でい続けてほしい」と要請する。
その結果、日本のかわいい系女優はみな能面化していく恐れがある。
 
女優だって人だ。
もっと生の感情がでてきていいし、出てこないときは無理に出す必要はない。
 
 
もちろん笑顔の新垣結衣はかわいい。そこは微塵も否定しない。
(それどころかその笑顔にどれだけ心奪われたかわからない。)
 
しかし無表情で『恋ダンス』を踊るガッキーも意外と良かったりするのではないかと、妄想を膨らませながら思うのである。

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