フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

夜行バスでこんなにも美味しいコーヒーを飲んだのは生まれて初めてです。

夜行バスの隣の席の人に、あまり良い思い出がない。
 
歯を真っ平らに削ることに至上の価値を見出したかのごとく激しく歯軋りする人。
夏の暑い車内の環境にはどう見ても適応しそうになく、座席からはみ出す巨漢の人。
それでなくとも窮屈で過ごしにくいバスの中で、彼らのような人が隣だとなかなか寝付けない。
 
今は実家の大阪行きのバスの中。
隣に座っているのは、車内でもサングラスを外さない、革ジャンに黒パーカーを合わせたいかにもHIP-HOPなイカつい兄やんである。
彼が悠々と缶コーヒーを飲む隣で私はプルプルしているのである。
 
 
パーソナルスペースの概念に従えば、家族・恋人と接するのに適した「自分の半径45cm以内」にバスの隣の人はゆうに入る。
にもかかわらず、私は彼らを自分の世界とは関係のない異物と捉えている。
「どんな人か」など考えず、「私が快適に過ごせるかどうか」の基準でしかその人を見ない。
 
これはバスの中だけに限ったことではない。
普段暮らしていて、自分の知らない人の人間性に思いをはせることも、つながりを感じることもあまりない。
もし周囲にいたとしても自分1人しかいないような感覚で過ごすことが多い。
電車内で化粧をしたり、知人と話している時は柔らかい顔になるが1人で街を歩いているときは無表情でいたりするのが、いい例だろう。
 
逆に知らない人とつながろうとするとき、私たちはある程度能動的な努力をしている。
友人を増やすためにイベントに赴き、サークルに所属する。
恋人をつくるために合コンに参加する。
 
しかし街を歩けばたくさんの人とすれ違っているはずなのに「居場所がない」「出会いがない」と嘆き、意図的に出会いを生むというのは妙な話である…。
 
 
さっきサービスエリアでトイレに行ったHIP-HOP兄やんが戻ってきた。
どうやらまた缶コーヒーを買ってきたようだ。
 
私が通路側なので一旦立って先に座るよう促す。
 
ん?
 
兄やんが缶コーヒーを私に差し出している。
 
「あ、ありがとうございます…」
「うん」
 
トイレ休憩のたび私が立ち上がって彼を外に出してあげた礼なのかしら…
兄やん…
 
 
寡黙でぶっきらぼうに見えた兄やんの中には、見ず知らずのメガネ坊主に缶コーヒーを奢ってくれる、温かな優しさがあった。
 
それまで異物だった兄やんの存在が、私の世界にグッと入ってきた
私にお礼をしたいという彼の思いが、その缶コーヒーの中にぎゅっと詰め込まれていたからだ。 
思いが見えたからこそ、私は彼につながりを感じた。
 
出会いとは、決して意図的につくるものだけではない。
偶然できる道端の出会いがある。
 
外に出たとき、人とつながろうとする気持ちをシャットダウンしてしまうのではなく、周りの人は自分と地続きのところにいる感覚と、他人の思いを受け止める姿勢を持っておく。
そうすればあなたもHIP-HOP兄やんに出会えるかもしれない。
 
コーヒー美味かったです。
 

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