フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

「この世界の片隅に」と、東日本大震災と、

1930~1940年代の広島を描いた、こうの史代による日本の漫画作品で、現在アニメ映画が上映されている。
 
※以下ネタバレあります。
 

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映画の前半では広島県呉市の北條家に嫁いだ、主人公すずののどかな日常が描かれる。
 
道に生えた野草を含む数少ない食材で、できるだけおいしく栄養のある食事を楽しく作ったり、
すず をスパイだと勘違いした陸軍兵を笑い飛ばしたり、
第二次世界戦争は「貧困」や「徴兵」という形で影を落とすも、それは当たり前のものとして生活は進む。
 
声優をつとめたのんの柔かな声もそのゆったりとした空気感 にしっくりと合う。
 
転換となるのはすずの姪、晴美の死だ。
すず と手をつなぎ右側を歩いていた幼児の晴美は、時限爆弾の爆発に巻き込まれ死んでしまう。
その直後訪れる、胸をざわつかせる真っ暗な画面と荒い音声が、前半の空気感を打ち消し、一気にシリアスな展開になる。
 
「左手で晴美さんの手を握っていれば…」というすず の激しい後悔や、
すず を「人殺し」となじる晴美の母径子の怒りに、
私はどうしようもなく心がかきむしられた。
 
 
同じ感覚を、東日本大震災の後、抱いたことがある。
津波で被災した、岩手県の男子中学生を傾聴した記録を読んだときだ。
 
 
自分の中学校は2人が亡くなった。ちか(亡くなった女子)は、地震のとき運動場で見た。
自分は高いとこに逃げたけど、ちかは、じいちゃんばあちゃんをさがしに、マストに行ったか、ふとんをとりに行ったのか、分かんねけど、
波にのまれて、みつからなくて、一昨日、安置所で焼けどで顔も見られん姿で、みつかった。
ちかを最後に見たのが…。ちょっと…見てしまったからさ…。

 

 
私は実際に彼に会った訳ではない。
それでも、この言葉を読むだけで「命の失われる恐ろしさ」が私を突き刺す。
この言葉と出会ったからこそ、私は対人援助の世界へ進もうと考えるようになったと思う。 
 
死と出会ったとき、人は命の持つエネルギーを知る。
 そして「死にたくない」と
「大切な人に死んでほしくない」と強く感じる。
 
それがまた自分の生きるエネルギーになる。
 
すず は爆発で右腕を失うも、家族の中に、この世界の片隅に、自分の居場所を見つける。
原爆を生き延びた子どもを家に連れ帰り、ともに「生きる」ことを選ぶのだ。
 
戦争を学べるということはもちろん、ちょっと前を向いてみるキッカケになる、素晴らしい作品でした。