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フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ぼくらを襲う近代的呪いの正体を暴く

このブログを始めてから、2ヶ月が経った。
 
ありがたいことに様々なコメントをいただいているが、一度だけ否定的なコメントをされたことがある。
幽遊白書」という少年漫画を引用した私の記事に対し、
 
「聞かれてもいないのに勝手に話して。これだから漫画マニアは…」と。
 
発信者が複数の人たちから激しく非難される炎上と違い、匿名の、たった1人にだけ、しかも
「そもそも聞かれてもいないことをブログ執筆者が書くのは当たり前では…」
と突っ込みたくなるようなコメントである。
 
だが、それでも通知が来た瞬間、私の心はビクリとし、ドロッとした自己否定感が残った。
どこの誰か分からない(しかも思慮の浅い)その言葉がなぜ私を恐れさせるほどの負のエネルギーを持つのか。
 
思想家の内田樹先生はネット上の貶下的言説は本質的に「呪」であると主張する。
 
「呪」は呪詛するもの自身には直接的利益をもたらさない。
けれども、他者が何かを失い、傷つき、穢されることは彼らの「間接的利益」に計上される。
・・・
「呪い」は「批判」ではない。その二つは別のものである。
・・・
言うまでもないことだが、言説の信頼性はもっぱら発信者がこれまでいくつかの重要な論件について高い頻度で適切な判断を下してきたという「通算成績」に担保されている。
 
私たちが他人の発言に説得されるのは、言説の「単品」としてのコンテンツの整合性を尊ぶからではない。
そうではなくて、これまでの長い年月を通じて、その人が積み重ねてきた言動から推論できる判断の「適切さ」である。
・・・
ふつうは発信者が何者であるかについての情報が豊かであればあるほど言説の信頼性は高まる。
「批判」が「批判」として機能するのは、固有名と生身の身体を持った個人が「自分の言葉の責任を引き受ける」と誓言するからである。

 (内田樹鷲田清一『大人のいない国』)

 

「これだから漫画マニアは…」コメントの主がもし、ネット世界への漫画流出を憂う大物漫画家か、はたまた漫画などというフィクションを否定し続ける生粋のリアリストブロガーであれば、
「ああ…なんて浅はかなブログ記事をアップしてしまったんだろう…」
と私は嘆き、後悔したかもしれない。
 
しかし相手は匿名である。
 
内田先生は続ける。
 
「批判」は発信者の身体を差し出さない限り機能しないが、「呪い」は発信者の身体を隠蔽することでより効率的に機能する。
・・・
呪いの効力はそれが誰の、どのような怨念から由来するものなのか「わからない」という情報の欠如に存している。
だから、「呪い」の発信者はその身元を明かさない。
呪いの発信者の実名が知られるとき、呪いは効力を失う。
発信元がわかった時点で、自ら発した「呪い」はまるごと発信者に戻ってくるからである。
…呪いの言葉を書き連ねる人々は、自分の名が知られたときに、どれほどの制裁を受けることになるか知っている。
 
顔も名前もわからないどこかの誰かが、私のブログ記事の内容に何かの理由で憤慨し、憎しみを抱いているとしたら…。
 
その揶揄はまるで死角から飛んでくるナイフのように、「わからない」からこそここまで私を脅かしたのだ。
 
しかしもし相手が大物漫画家でも、リアリストブロガーでもない一般的な人で、
「今日仕事で上司に怒られてむしゃくしゃするぜえ…」とか
「『幽遊白書』俺まだ読んでないんだよ!」とかいう気持ちでこの否定的コメントを書いたということがわかれば、私はこんなにも嫌な気持ちはしなかっただろう。
 
時には人を自殺に追いやる否定的コメント(=呪)を減らしていく方法として、内田先生は言論の自由の再定義を唱える。
 
言論の自由があるから何を言ってもいい」ではなく、「言論とはそもそも聞く相手がいて成り立つものだから、発信するときは相手への敬意を持たなければならない」という社会的合意を形成することが必要だという。
 
私はそれに加え、‟他者が何かを失い、傷つき、穢されるという「間接的利益」”という嗜好を持ってしまった不健康な人たちをサポートすることを考えたい。
 
「『幽遊白書』やっぱり面白そうだな!ぜひ読もう!☆」と思えるような。
 
それには「自尊感情」がキーワードになると思う。
それについてはまたいつか書きます。
 
難しいテーマゆえ、投稿した暁には皆さんぜひご「批判」ください。

 

大人のいない国 (文春文庫)