フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ぼくらはサイヤ人ではない。地球人だ。

先日仙台市内で行われた地方創生のイベントに参加した。
「どうすれば仙台を盛り立てられるのか」をテーマに、仙台で活躍する若者4人が発表・トークセッションする形式だった。
 
4人はそれぞれ学生起業家、イベントプランナーなど、20代前半ながら錚々たる経歴の持ち主で、プレゼン能力も非常に高く、なにより勢いがあった。
 
司会者から「今の仙台をどう思う?」という質問がでたときである。
 
4人は口をそろえて「もったいない」と仙台を評価した。
仙台市民は能力が非常に高いのに、活かす機会がなく、また活かそうとする気もないために、得るべき社会的評価を得ていないのが惜しい、というのである。
能力を活かしきっている彼らからすれば、歯がゆく思われるのであろう。
 
しかし、彼らにもったいない宣告を受けた仙台市民たちは、自分の生き方をもったいないと思っているだろうか?
 
少年漫画をこよなく愛する私は、社会への有用性や社会的評価を強く求める彼らの姿に、サイヤ人を重ねずにはいられなかった。
 
鳥山明の名作ドラゴンボールに登場する戦闘民族サイヤ人は根っからの戦闘狂で、常に強い敵と戦うことを求めている。
主人公、孫悟空にもその血は受け継がれており、次々と現れる敵との闘いと自分の戦闘力を上げることに病的に執着する。
未来の情報を手に入れ、その出現を阻止できたにも関わらず、自分が戦いたいがために人類の脅威となる“人造人間”の出現をあえて待つなど、とんだクレイジーぶりである。
 
悟空のクレイジーな言動による被害は息子である孫悟飯にまで及ぶ。
悟飯は地球人の血が混じったためかそこまで戦闘には興味がなく、学者になることを目指す心優しい少年に育っていた。
 
悟空の力も及ばない敵‟セル”との闘いで、悟空は自分よりも潜在能力を秘めつつも戦いを望まない悟飯を、なんと無理に「キレさせる」ことでパワーアップし、セルに挑ませようとするのである。
 

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とんでもない戦闘民族エゴの押し付けである。
そんな生活環境で無事悟飯が学者になれたことに、私は涙を禁じ得ない。
 
 仙台で活躍する若者4人の「もったいない」発言は、この戦闘民族エゴの押し付けに近いと私は思う。
サイヤ人が「戦わない人」をよしとしなかったように、「もったいない」という言葉の裏には「有用性のない人」「社会的評価を得ていない人」をネガティブにとらえる思想が潜んでいる。
 
確かに有用性を優先することは資本主義の観点から見れば重要で、切磋琢磨することでより大きな結果が生まれるだろう。
しかしその思想が人間の価値そのものを規定するものになってしまうと、優性思想に見られるような一部の人を切り捨てることにつながる。
 
有用性や社会的評価を得続けるには、多大な努力をしなければならない。
人生の大半を修行に費やした悟空のように、それを苦としない人にとっては問題ないのだろうが、もちろんその生き方が合わない人もいる。
 
また社会的評価があるうちはいいが、それがなくなったとき、誰かに上回られたとき、劣等感が生まれ、苦しくなるだろう。
強さだけを生きる術としてきたサイヤ人がより強大なフリーザに滅ぼされてしまったように。
 
有用性や社会的評価、また強さなど、価値基準を一本化させない、むしろ人間の価値を何かの基準に委ねず、あるがままを認めていくような風潮が今足りていない。
 
尻尾が生えている赤ん坊でも、拾って大切に育てる孫悟飯(悟空の育ての親)のようなおおらかな姿勢が、今必要ではないだろうか。
 

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