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フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ボランティアを日常化するために髪型をツーブロックにしてみませんか

学生の頃一緒に東日本大震災のボランティアに取り組んだ友人から、
「ボランティアはどうしたら日常化するのか?」というテーマで記事を書いて欲しいと言われた。
 
甚だしく難解なお題である。
 
もちろん私は専門家でなく、学生時代はプレイヤーとして、社会に出てからはコーディネーターとして被災地ボランティアに関わってきたので、「震災」「学生」をキーワードにしてこのテーマについて論じたい。
 
阪神淡路大震災が起きた1995年はボランティア元年と呼ばれ、それまで認知度の低かったボランティアという言葉、その行動が世間に広まった。
しかしそれが日常化したかと言われると、素直に首を縦に振ることができない。
 
ボランティアに参加した私や他のメンバー、そして未だに被災地へバスを派遣し活動し続ける後輩たちは、
「現地にもっとボランティアが来れば復興は進む」
「ボランティアの良さや被災地の現状を知ってもらいたい」
などの理由から、広報誌やSNSでボランティア参加の呼びかけを長く行ってきた。
 しかし例えば軽音サークルは他人に「ロックしよう!」と声高に主張はしない。
それは軽音楽が普遍であるために敢えてアピールする必要がないからで、私たちの呼びかけはボランティアが普遍でないことを暗に示唆している。
 
ボランティアの社会への浸透を妨げるのは、その言葉が持つ重さだ。
ボランティアは「貢献」という意味を含むので、どうしてもそこには「自己犠牲」であり「高尚」というニュアンスがつきまとう。
 その安易な紐付けによってボランティアとは“善”の心を持つ奇特な人がする特権的なもの、と思われてしまう。
 
しかしボランティアをする人が皆”善”をきっかけにしているかと言うとそんなことはない。
例えば被災地ボランティアなどでは
「現地はどうなってるのか?」
「友人が行ってるから」
くらいの気持ちで参加する人が多い。
ちなみに私は親に「行ってこい」と言われたのがきっかけだ。
 
その結果参加者たちは、楽しさややりがいを見出したり、現地の人と仲良くなりまた会いたいと思ったり、そうしてボランティアを継続していく。
 しかしこうしたメリットは実際に行ってみないとわからない。
特に後者などは関係性ができて初めて感じる喜びだ。
 つまりボランティアを広報することは、ボランティアの良さを伝えてはいるが、伝えきることはできない、というジレンマを常にかかえている。
 
そのジレンマを超えるために、
「ボランティアしたことのない人を変える」のではなく、逆に
「ボランティア自身がが変わる」という考えを持ってみるのがいいのではないだろうか。
「ボランティアに行こう!」と呼びかけるよりも、自分たちの姿勢や考えを変えることでボランティアを増やすのだ。
 
 
さて、ここからがようやく本題である。
 
しかもまだここで半分である。
ワンピースで言うならこんなに読んで「まだ魚人島かよ」という絶望に近い。
読者10人のうち8人はスマホを投げ出して録画していたドラマ「逃げ恥」を見初めているだろう。
残りの2人はどうかまだグランドラインの航海に付き合ってほしい。
 
 
ボランティア自身がどう変わるか。
 
それを考えるにあたり、先ほど書いた「友人が行ってるから」ボランティアするという参加理由が手がかりになる。
 
高尚で自分には関係ないと思っていたのに、友人や、自分と同じ立場の人が参加しているという事実によって、人はボランティアに身近さを感じる。
この身近さを増すことで、ボランティアを特権的な位置から一般的な社会に降ろすことができるのではないだろうか。
 
大掛かりな仕掛けとしては、ボランティアをすれば人気アーティストのライブに行くことができるプロジェクト、RockCorpsが有名で、ボランティアを私たちの身近な音楽と結びつけている。
 
一方、ボランティア個々人でできるような小規模な仕掛けも論じたいが、ここで
「周りの友だちにボランティアを勧めてみて★」
というありきたりな結論で終わっては、新垣結衣の魅力を振り切って読んでくれてる人に張り倒されそうなので、もう少し突っ込んだ提案をしたい。
 
1つの案として、ボランティアのファッションについて考えたい。
 
例えば女の子の
「休日何してるの〜?」という質問に、
白靴下をファッショナブルに履きこなすようなオシャレ系男子が
「ボランティアかな〜」と答えると、
「えー!いがーーーーい!」と言われるやりとりを今まで何度か見てきた。
 
そして垢抜けない服装の人が同じ答えをしたら
「あ、ぽーーーーい!」というやりとりは幾度となく見てきた。
 
つまり「ボランティア=非オシャレ」という、ファッションを軸としたボランティアのカテゴライズがなされている。
 
もちろんボランティアの現場でオシャレなど二の次三の次だ。
身動きをとりやすくしないといけないし、被災地のような過酷な状況の中で華美な服装は反感を買うだろう。
鏡の前で30分以上ワックスで自分の髪型を整え、家を出てからも鏡の前を通るたびに髪の毛をいじっていた高校生の頃の私のようではいけない。
当時の私はとんだ自意識過剰野郎であった。
 
しかし普段の生活の中でならオシャレは上手く利用することができる。
 
日常からかけ離れたものを広く訴求させた団体として、分野は異なるが、平和安全法制(安保法制)に反対を唱え大規模なデモを展開した「自由と民主主義のための学生緊急行動」(SEALDs)が好事例だろう。
 
「デモはカッコイイと思わせる」というモットーの元、現代風の服装やヒップホップで攻撃的なイメージのあったデモ運動を日常的なものにデザインした。
 
特にメンバーの奥田愛基さんはそのモットーを体現しており、平和安全法制を審議する参院特別委員会の中央公聴会にツーブロックヘアーで行ったのはおそらく日本で彼が初めてだろう。(知らんけど)
 

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ファッションの意味について、ファッション学にも造詣が深く、現在朝日新聞で「折々のことば」を連載されている哲学者の鷲田清一先生の主張が興味深い。
 
ファッションにぜんぜん気がいかない人はかっこよくないが、ファッション、ファッション…とそれしか頭にないひとはもっとかっこわるい。
このふたつ、一見反対のことのようで、じつは同じ態度を意味している。
 
他人がそこにいないのだ。
 
あるいは、他人にじぶんがどのように映っているかという、そういう想像力の働きが、欠けているのだ。
 
ひとにはそれぞれ印象というものがある。
印象がいいというのは、ファッションではもちろんほめ言葉のひとつだ。清潔な感じがするとか、さっぱりしているとか、あるいはダサいとか、暗いとか、かったるいだとか。
 
・・・(略)・・・「印象」の反対の言葉をご存知だろうか。「表現」という言葉だ。
 
・・・(略)・・・ファッションというと、最近は、多くのひとがこの「表現」に結びつけて考える。
 
・・・(略)・・・おしゃれというのは、じぶんを着飾るということではない。
むしろそれを見るひとへの気くばり、思いやりだと考えると、服を選ぶセンスが変わってくる。つまり、他人の視線をデコレートするという発想をどこかに取り入れること、つまりそういうホスピタリティが、ファッションでいちばん大切な要素なのではないかと思う。
 
・・・(略)・・・舞妓さんと修行僧、徹底的にドレスアップして客を歓待するひとと、徹底的にドレスダウンして衆生を迎え入れるひと。
どちらも常人のしらない幸福を教えるホスピタリティのプロ、どちらもけっしてじぶんのために着飾っているわけではない。
こういうセンスの働かせ方を、多くのひとが忘れかけているのではないだろうか。
鷲田清一「てつがくを着て、まちを歩こう」P6
 
つまり、“ファッションにぜんぜん気がいかない人”は、他人への意識、ひいては社会への意識が低いと考えることができる。
 
それは他者との疎遠につながっていく。
 
他者の視線を意識したファッションをすることで、例えば奥田さんのようにツーブロックヘアーにしてみることで、「あのオシャレな人もしているのか」と、ボランティアは日常へ降りてくることができるのではないだろうか。
 
もちろんファッションに興味がない人が無理矢理ツーブロックにする必要はない。
あくまで関心のある人がボランティアを日常化する手段として、試してみたらいいと思う。
 
ちなみに私は美容院で「今日はどうしましょうか?」と聞かれたら
「軽くツーブロックで」とさりげなく言い続けている。
 

てつがくを着て、まちを歩こう ――ファッション考現学 (ちくま学芸文庫)