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フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

星野源、その童貞力。そして童貞抑圧。

TBSのドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」が人気だ。
 
設定の面白さや脇を固める俳優陣の厚さはもちろん、新垣結衣の圧倒的な可愛さに話題が集まっている。
人間界の業をすべて解き放つような微笑みをたたえながら「恋ダンス」を踊る新垣結衣からどうしても目を離すことができない。
古田新太の実はかなりキレキレなステップなどにも目もくれない。
 
しかし、
しかし今日は新垣結衣のあふれる可愛さに関して20000字くらい書きたい欲求を抑えて、あえてもう一人の主演、星野源に言及したい。
 
星野源は役者業、音楽業、文筆業、映像制作業を行う、異色の存在だ。
「SUN」が人気を博して以来華々しい活躍を見せているが、本人曰く自身は劣等感の強い性格らしい。
小学生のころに自分がオタクであることに気づき、「自分は人と比べておかしいのではないか」と思い悩んだと著書「蘇える変態」でつづっている。
音楽も軽音楽部のような学校の人気者という形ではなく、学校生活のドロドロしたものを家に持ち帰り曲におこしていたらしい。
 
そうした星野源の欝々とした経験は、彼の演技の中で童貞力という形で強く発揮されている。
童貞力とはつまり「女性関係にこなれていない感」である。
 
星野源演じる津崎平匡36歳は36年間女性と交際したことがない。
さりげなく「ただいま」と言おうとして「ただいま!・・・・帰りました・・・」と濁してしまうシーン
前回、新垣結衣演じる森山みくりに恋人になってほしいと言われ、パニックになるシーン
などにそれは顕著に表れる。
星野源の主演映画、「箱入り息子の恋」や「地獄でなぜ悪い」にも彼の童貞力はあふれ出ている。
 
ここまで秀逸に、かつリアルに童貞を演じられるのは、彼と森山未來くらいだろうか。
童貞界の二大巨頭である。
 
童貞の魅力は、女性関係において、例えばドラマ「花より男子」の小栗旬なら5分でできることを、3か月くらいかかってしまうような、多大な労力を要するところにある。
一般的な恋愛モノは早々に男女が結ばれ、それ以降の葛藤などが描かれる。
一方、自身の劣等感や経験不足が邪魔をしてなかなか恋愛が発展しないからこそ、童貞系恋愛モノは、彼らが成長しかつ恋愛成就することがゴール、というサクセスストーリーに仕上がるのだ。
 
 
童貞について熱く語る私の姿にすでに引いている方も数名いるかもしれない。
しかしここからが本番である。頑張ってついてきてほしい。
 
童貞の劣等感はなぜ生まれるのか、という問題である。
 
恋敵となる同僚のあごひげイケメン風見の出現に、平匡は激しく揺さぶられ、みくりへの気持ちを素直に認められず、こんな思いをするならみくりと別れたほうが…とまで考え出す。
みくりはこの平匡を傾向を自尊感情の低さによるものと分析するが、それは平匡に限らず、多くの童貞や非モテ男性にも通ずる。
その要因の一つが、社会に広がる童貞抑圧の風潮だと私は考える。
 
社会学者の渋谷知美の著書「日本の童貞」によると、性交経験の有無やその回数が、人間の、特に男性の価値に影響を及ぼし始めるのは1960年代半ばからだという。
それまでお見合い結婚が主流であったのに対し、その時期を境に恋愛結婚が数で逆転する。
つまり、何もしなくても周りが勝手に相手を見つけてくれ、結婚までセッティングしてくれる、男たちにとってぬるま湯の時代から、相手を見つけてくるのは、個人の能力・努力次第であるという、激動の自己責任時代に突入したのだ。
 
1980年代になると童貞への攻撃は苛烈さを増す。
相手を見つけられないのはもはや個人のパーソナリティに問題があるとして、「不潔」「コミュニケーション能力が欠如している」などと非難されるようになる。
 
現代では草食系男子という言葉が生まれ、そこまで問題ではなくなってきているかもしれないが、それでも「20歳過ぎると妖精見える」「30歳過ぎると魔法使い」(年齢には地域差アリ)など揶揄する言葉は後を絶たない。
 
私自身、童貞が仲間内で話題になったとき、それをネタの方向でしか語らなかったし、童貞のころ無性に焦りを感じていた。
 
しかし童貞で悪いなどということは全くない。
卒業のタイミングは周りにとやかく言われて決めるものではなく、そうしたいと思った相手と、そうしたいと思ったときに訪れるはずだ。
 
そのために私たちは童貞を語るとき、揶揄やネタとは違う方向で語っていくべきだと思う。
 
逃げ恥、今後津崎さんがどう童貞劣等感から解放されていくのかがとても楽しみだ。
 

蘇える変態

 

日本の童貞 (河出文庫)