フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

ゲイを家に招いた時パンツは干していてもいいのか問題

初めてゲイという言葉を知ったのは、セクシャルマイノリティという人がいることを知ったのは、いつだったろう。
 
小学校の高学年の頃には、男友達へのスキンシップが多いクラスメイトを
「ホモかよお前〜」といじるようになっていた。
 
中高になると差別表現はより酷さを増し、「ゲイに襲われる」といったように、
まるでモンスターか何かのように表現する言葉が当たり前のように発されていた。
 
その風潮は現在でも変わらない。
多様性という言葉が広まり、それがメディアや教材に反映されるようにもなったが、
以前仕事でかかわっていた中学生たちも、
15年前の私たちと同じようなことを口にしていた。
 
実際にゲイの人と出会ったのは
(厳密にはすでに出会っていたと思うが、カミングアウトしているゲイの人と出会ったのが)、
仙台に越してきてすぐの頃だった。
 
彼は名前をあいはらくんと言い、当時私が住んでいたシェアハウスに、私が住む前からよく遊びに来ていた。
 
とても社交的な性格で、初対面でもざっくばらんに話すことができたが、
それでも彼がゲイであるという話題になると
“ぴりっとした緊張感”
が自分の中に生まれるのを感じたし、
 
彼が冗談で「あーキスしてーなーー」と言うと、
自分の意識が急にビクッと尖るのを感じた。
 
セクシャルマイノリティについて学んではいたので彼をモンスターのように見ることはなかったけれど、それでも自分とは異なる存在として感じていたのだと思う。
 
ある日シェアハウスから引っ越した私の家に、
あいはらくんが1人で遊びに来たことがあった。
 
家に招いてから、私は部屋に自分の洗濯物、
しかもパンツを干しっぱなしにしていることに気づいた。
忘れもしない、ユニクロ水玉模様のパンツである。
 
女性を家に呼ぶ時、下着を部屋に干しておくのはマナーに反すると考えていたが、
では相手がゲイならばどうなのだろう…?
 
女性の場合、相手を女性扱いせず傷つけてしまったことはあるが、
ゲイの場合、ゲイ扱いしないと傷つくのか…?
そもそも普段自分も履いている男ものパンツを見て何か思うのか…?
 
進退窮まった私はもう彼に直接聞いてみた。
 
 
「パンツ干しっぱなしってどうなん?」
 
「あのさー、好きな人のパンツなら嬉しいけどあんたのパンツ見ても何も思わん」
 
 
 
なんと独り相撲はなはだしい俺。
 
私は”ゲイ”という言葉に縛られて、
人が相手を知ろうとする時当たり前に行う‟聞いてみる”という行動を、
コミュニケーションをとるということを忘れてしまっていたのだ。
 
それ以来彼とはゲイのセックスのやり方や、今まで付き合ってきた人たち、
ゲイのコミュニティなど、かなり突っ込んだ話をすることができるようになった。
 
恋人とのデートを楽しみにする彼の姿に、
「ゲイは男なら誰彼構わずアプローチする」
という誤った言説がどれだけばかばかしいかも、肌で感じることができた。
 
差別をなくすためには、「正しい知識を身につけることが大切だ」とよく言われる。
しかし私はそれだけでは足りないと思う。
 
メディアや書籍などでゲイについて学び、その性志向や人数など表面的な知識を身につけても、
彼らが何を考え、どう感じ、何が好きで何が嫌いかなど、
内面にまで踏み込んで知ることはできない。
 
表面的な知識だけで「ゲイのすべてを知った」と思い込むと、
私が「パンツを干しっぱなしの部屋に招くとゲイを傷つけてしまう」
勝手に推論したように、
その人の実像からかけ離れた‟虚像”を作り上げてしまう。
 
その”虚像”に基づいて相手に接すると、相手が求めてもいないことをしたり、
そうとは知らず相手を傷つける言動をしたりしてしまう危険性がある。
 
差別をなくすどころか、ゲイとの溝はどんどん深まっていくだろう。
 
この分断をなくすためにはゲイと出会うこと、
そして外部者としてではなく、
同じ土俵に立つ、同じ人間として対話する
ことが大事だと私は思う。
 
”ピリッとした緊張感”を恐れず
「パンツ干しててもいい?」とつっこんで聞いてみる勇気を持ちたい。