恋人にゾンビと言われた男の話
あなたは恋人にゾンビと言われたことがあるだろうか。
私は、ある。
10年前、高校2年生だった私は初めてできた恋人とのバラ色ライフにどうしようもなく浮き足立っていた。
クールキャラ(女の子につれない態度をとる、例えば「おはよう!」という女の子の挨拶に「おぅ…」と無表情に応えたりする)を目指していた私(アホ)でさえも、付き合って1ヶ月は顔のニヤニヤをおさえられなかった。
同じ部活の彼女と、週に2回は一緒帰る習慣になっており、その日も一緒に帰って彼女の家の前でおしゃべりをしていた。
何気なくおしゃべりをしていたが、ふと沈黙が訪れ、なんだか「それっぽい空気」になった。
こ、こここここれは噂に聞く「それっぽい空気」!!
未だ手も繋いだこともない私と彼女。
ここでいっとかなければ男がすたるのでは…!!
と私は突然のミッションをつきつけられた。
しかし悲しいかな今日は雨…。
彼女と私は傘をさしており、その距離は容易にはつめられない。
しかしこの千載一遇のチャンスを是が非でも逃してはならぬと思った私は、何をとち狂ったのか、「これがイケてる男の最適解」と言わんばかりに、持っていた傘を後ろへと勢いよく放り投げた。
もちろんまだ雨は降っている。
アホである。
傘という邪魔モノを後方に追いやった私は、一歩、また一歩と彼女へ向かってじりじりと歩を進めていった…。
もう少し、もう少しで俺もイケてる男の仲間入り…。
と、突然彼女が持っていた傘を開いたまま私に向かってバッと振り下ろした。
私の行く手は、水玉模様の可愛らしい傘に完全に阻まれた形になった。
何が起こった?
勇気を振り絞った傘投げからの前進、それがなぜ遮られているのだ?
突き刺すような沈黙。
私は声をふり絞った。
「な、なんでなん…?」
「西井くん…ゾンビみたい…」
後で聞いた話だが、この時私はあまりにテンパっていたためか、両手を前に突き出し、あろうことか「あ…あ…」と奇声を発して近づいていたというのだ。
この2ヶ月後私たちは別れることになる…。
おおっぴらに書いてはいるがもちろん恥ずかしい思い出だと思っている。
ゾンビと言われた後、彼女の目の前でかっこつけて投げた傘を拾いあげた、あの日の情景を思い浮かべると情けなくて涙が出る。
しかしこんなにも面白いネタを記憶の中にとどめておくなど、私の大阪人の血が許さない。
飲み会で、就活のグループワークで、最近では大学院の自己紹介で。
あらゆる場でこのエピソードを披露し、笑いをかっさらってきた。
私のすべらない話のトップに君臨し続けている。
この話を語ることには、笑いをとれること以外にもう一つ効果がある。
28歳というaround30な歳になると、批判されることが少なくなってくる。
若いころは「アホやな」とか「もっと頭使え」とかいろいろ言われてきたけれど、それが減り、そのせいか誉め言葉が際立つようになってきた。
「落ち着いてますね~」「行動力がありますね~」みたいに褒められる。
(最近ブログ記事を褒められることが増えてきたことについては大きな声では言わない。)
街中で鏡を見つければ、その都度鏡に映る自分の髪の毛をいじってしまう先天的ナルシストな私は、それがお世辞かもしれないという可能性を微塵も考慮せず、
「そうですかね~えへえへ」と受けとめてしまう。
そうして、もともとメタボリック気味な私の自意識はぷくぷく太っていく。
そんな時このエピソードを語ると
「あ、俺たいしたことないぞ」と気づくことができる。
「俺すごいかもしんねえぞ…」
という自意識過剰の世界へとフワフワと飛んで行ってしまいそうな私を、
「いやいや待て待て。お前、所詮ゾンビやから」
と、現実の世界にとどめてくれる楔の役割を持つのである。
「あの時失恋して悲しかったけど、それを教訓に今は立派にやってます…」
のような結婚式で行われる大切な人への手紙の読み上げみたいに、当時の彼女に感謝したいわけではない。
むしろ今でも「いや、恋人にゾンビは言ったあかんやろ」とツッコみたい気持ちでいっぱいだ。
言いたいのは、大人になっても「かっこ悪いエピソード」を自分の中に持っておくということである。
周りの目や、自分の意識によって出来上がってしまった「かっこいい自分像」に沿うよう生活することは難しいし、維持することはしんどい。
木村拓哉は絶対に「寒い」と言わないという話を聞いたことがあるけれど、寒いときは「寒い」と言っていい。
「かっこ悪い自分もいる」ということを認めてあげれば、無理に自分を飾る必要がなくなり、少しだけ楽に生きられる。
とは言っても、女の子に奇声をあげながら近づくのは、いくらなんでも認めないほうがいいと思う。
ノンケがゲイバーに行ってみた。
「右から2番目のあのメガネくんがタイプ!」
友人に連れられて初めて訪れたゲイバーで、お客の一人に言われたセリフである。
仙台から大阪へ引っ越す準備が終わったころ、ゲイの友人が「最後の思い出に」と、私を含めノンケ(異性愛者)3人を連れて行ってくれた。
女装したいわゆるオネエの方々が接客してくれる店ではなく、ゲイの人たちが集まるバーである。
店内はとてもおシャレで落ち着いており、カウンターの中では肌ツヤツヤのマッチョなマスターがこれまたおシャレにシェイカーを振っていた。
お客はサラリーマン風の男性が2人いて、おにいさんと会話を弾ませている。
「この前一緒に帰った子とはどうなったのー?」
「んーひみつー♪」
マッチョなマスターとアラサーサラリーマンのバラ色恋愛トーク。
そう、ここはゲイバーなんだ…。
彼らの会話に耳を傾けながら改めてその事実を認識し、どうふるまっていいのかわからずフルフルしていた私たちにマスターが話しかけてくれた。
「4人ともゲイなの?」
「いや彼だけゲイでぼくら3人はノンケなんです」
「ノンケ!?」
すでに高かった彼らのテンションは‟ノンケ”というキーワードを聞いてさらに跳ね上がった。
どうやら「ほかの男に汚されていない」という点でノンケ需要はそこそこ高いらしい。
そこからの質問攻めはすさまじく、仕事や女性のタイプ、好きなAVのジャンルまで、興味津々に質問された。
その後アラサーサラリーマンから言われたのが冒頭のコメントである。
(この後私は彼に首筋の臭いをかがれて「かわいい顔してるけどちょっと男っぽい臭いのするところがまたいいっ!!」とおほめいただくことになる。)
とにかく性と恋愛にかんする話が多く(ここでは書けないほど下世話でおもしろいお話も)、彼らに気に入られた私たちは入店から30分で「きのこの山」「AV男優」「かりんとう」というある種の意図しか感じないあだ名をつけていただいていた。ちなみに私はきのこの山である。
性的対象として見られることについて
もしかしたらノンケ男性の中には同性からそんな視線で見られたり、いじられるのはイヤだと感じる人もいるかもしれない。
しかし私は一種の新鮮さ、あるいは独特の喜びを感じていたように思う。
小栗旬のようなモテ男ならともかく、28年の人生の中で他者からこれほどまでに性的な視線を向けられたことが、そして直接的にアプローチされたことがあったろうか。いやない。(反語)
ましてや首の臭いをかがれたことが。(強調表現)
私の周りの女性といえば、
「うーん、西井くんモテそうなのになーー☆」
「なんで彼女つくらないのー?すぐできるよー♪」
などといった毒にも薬にもならないような無駄フォローをしてくる人ばかりで、そこまで言うならもうお前が付き合ってくれよと言いたくなるような(言わんけど)虚しさしか残らない。
気休めでも、おべっかでもない、ストレートな好意。
やはりそれは向けられるとうれしいものである。
ゲイバーという居場所
さて、宴もたけなわ、そろそろ帰りますーと言って私たちはサラリーマンと一緒に店を出た。
(マスターはAV男優が気に入ったらしく名残惜しそうに彼に抱きついている。マスターがマッチョすぎて逃げられないAV男優。)
興味深かったのは店を出る前と出た後のサラリーマンの態度の変わりぶり。
さっきまで「首の臭い、臭いかぎたい」と言っていた軟派なサラリーマンの雰囲気が、店を出た瞬間ぴしっとした一般企業に勤める‟サラリーマン”のそれへと変貌したのである。
「俺の家おいでよー」と誘ってきたりするのかしらという予想を裏切り、彼は「じゃ!」と言ってさわやかに去っていった。
中の自分と外の自分を使い分けているかのようだった。
彼のその様子に、私はゲイバーの持つ機能を見た気がした。
そこは、普段の社会生活の中ではマイノリティとして扱われるゲイたちがマジョリティになれる空間として存在する。
会社では出せない自分を、ここでは安心して思いっきり解放できる。
そんな居場所的な役割が、ゲイバーにはあるのではないだろうか。
ところで、先ほどの話の裏を返せば、ゲイバーではマジョリティ、つまりノンケがマイノリティになる。
ノンケにとって「これが当たり前だ」と思っていた世界は大きく傾く。
外では「あの女の子かわいいよなあ」と気楽に言っていたはずが、そこでは「君みたいな子タイプなんだよなあ」と言われるのだ。
その傾きを恐れて逃げ出したり、ゲイを攻撃し始めたりする人もいる。
しかし、もし受け入れることができれば、世界は広がり始め、ゲイの人たちのしんどさ、楽しさ、居場所、さらにゲイの目線で見た新しい自分の側面(例えば私の首筋の匂いが意外と男っぽいということ)が見えてくる。
ゲイバーには鬼も蛇もいない。
そこにはフランクで積極的な、そしてノンケの世界をぐっと広げてくれるゲイたちがいるのだ。
それぞれの3月11日
今日で6年と1ヶ月。
先月初めて東日本大震災の追悼イベントに参加した。
いくつかのイベントに参加した仲間たちから話を聞いたところ、どうもそれぞれ色合いが違うようだ。
私が参加したところはとにかく楽しくをモットーに、全国から集まった音楽家たちが賑やかに音楽を奏でた。
仮設住宅の自治会長さんからできるだけ賑やかに、と申し出があったらしい。
ここでは3.11にだけたくさんの露天がならび、宗教団体が何かしら催しをしていたそうな。
生徒の7割が亡くなるという甚大な被害の出た大川小学校。
追悼のため頻繁に訪れる来訪者を対応していたのは、なんと遺族だったという。
もちろんしめやかにイベントを行うところもある。
それが多くの人が抱く追悼イベントのイメージだろう。
東北から遠く離れた関西に戻ってくると余計に、東北のことを他人事のように「かわいそうな場所」、3.11は「悲しく落ち込む時間」と連想する空気を強く感じる。
しかし実際には
次を見据えて東北という場を明るく盛り立てようとする人
自分のできることをたんたんと行う人
震災の悲劇を多くの人に知ってもらいたいと行動する人
様々な人たちがいる。
東日本大震災は確かにあった。
しかしそこで時間は止まったわけではない。
人は動き、そして変わる。
勝手なイメージづけで被災地を2011年に封じ込め、彼らの歩みを止めることだけはしたくないと、心から思う。
さて、ここから。
関西に帰って来て、大学院生としての生活が始まった。
それにしてもなんと濃い仙台での2年半であったか。
知り合いのほとんどいない地で、私はかけがえのない経験をした。
対人援助の世界へ足を踏み入れた、貧困家庭の子どもたちとの苦しく、楽しいやりとり。
そして闘争。
からの7ヶ月に及ぶニート。
様々な人たちと出会い、ライフワークにしたい分野を見つけられた市民団体の立ち上げ。
東北での生活の総括になった東北大学学生ボランティア支援室での仕事。
3回くらいキャリアステップを踏んだ。
仙台へ行く前は神戸のアパレルで働いていたので、大学を卒業してから
サラリーマン
NPO職員
大学職員
大学院生
という5つの肩書きを転々としてきたことになる。
古いタイプの職業人に「これだから若い者は堪え性のない…」と言われてももう何も言い返せない。
「ライフワークを見つけたとか言ってまた投げ出すんだろう?」と言われることもあるだろう。
しかしこの右往左往したキャリアを悔やんではいない。
一般企業で働いたから「あ、俺、金儲けあかん」と気づけたし、
NPOで働いたから対人援助をより深めようと思ったし、
ニートをしたから自分のこれまでをふりかえり、これからを見直すことができた。
人生に訪れる分岐点で(というか自分の人生の中に無理矢理分岐点を作って)、その中から1つの道を選んできたからこそ、今の自分がある。
「こうあるべき自分」が最初から決まっていて、それを探し、目指すのではなく、「選択を続けることでできあがる自分」。
人生をうろうろしながらも、とりあえず目指したい方向性は見つけた。
環境もできた。
一通りの知見も得た。
さて、ここから。
ドラマ『カルテット』で知る「ゆるく頑張る力」
ドラマ『カルテット』が終わってしまう。
こんなにも見ていて落ち着くドラマにはなかなか出会ったことがない。
それはまるで低反発枕のように私の心にしっくりとはまり、ほどよく笑い、ほどよくときめき、ほどよくハラハラできる。
※以下ネタばれあり
1.カルテットドーナツホールのもつ「ゆるさ」
彼らの重厚かつ軽妙な演技は大きな魅力で、家族でもない4人が、軽口を言い合いながら楽しそうに食卓を囲むのシーンはその真骨頂だ。
その他にも、ヒヤリとさせられる巻さんのミステリアスさ、雀ちゃんの別府さんへの甘い恋心、そしてゾッとするような有朱ちゃんの小悪魔感。
登場人物たちが独自のキャラクターを生かし、様々なエッセンスをストーリーに混ぜていく。
その土台となっているのは、全編に通底するある種の「ゆるさ」だと私は思う。
弦楽四重奏『カルテットドーナツホール』を組む主要人物4人は、音楽だけで食べているわけではない。
彼らは資産家である別府家の別荘に居候し、それぞれが別に副業をしているか、もしくはしていない。
作品に登場する音楽プロデューサーの言葉を借りるなら四流の奏者である。
「注文にこたえるのは一流の仕事。ベストを尽くすのは二流の仕事。我々のような三流は、明るく楽しくお仕事をすればいいの」・・・「志のある三流は、四流だからね」
(『カルテット』第5話)
しかし彼らには一流奏者への妬みや、奏者としての焦りが見られない。
と言って自分たちに見切りをつけ、プロをあきらめているわけでもない。
奏者としてのプライドを持ち(だから四流と揶揄されるわけだが)、定期的に練習を重ねる。
ただ「ゆるい」のだ。
醸し出す雰囲気が、暮らしが、弦楽器への取り組みが、ほどよく「ゆるい」。
同期が自分よりも出世が早い。
友人がすごくモテる。
高校の同級生が自分の年収の倍稼いでいる。
私たちはあらゆる場面で他人と自分とを比較し、ある領域で相手が自分よりも上にいた場合、劣等感を抱き、相手を恨めしく思ってしまう。
だから青筋立てて自分の限界を超えて頑張ってしまうか、周りと自分を呪ってしまう。
私もなかなかそのパワーゲームの螺旋から降りられない。
プロを目指すもプロになれていない。
でも焦らない。
でも努力はする。
そんな彼らの「ゆるい姿勢」はどこから来るのだろう。
以前教育界で流行った‟ほめてのばす”のように、社会的自尊感情は他人からの評価や他人との比較で風船のようにすぐに膨らんでいく。
一方基本的感情は、
あるがままの自分自身を受け入れ、自分をかけがえのない存在として、丸ごとそのままに認める感情です。よいところも悪いところも、長所も欠点も併せ持った自分を、大切な存在として尊重する感情が、基本的自尊感情です。そして、この感情こそが、自尊感情の基礎を支える大切な感情なのです。
(近藤 卓『子どもの自尊感情をどう育てるか』)
カルテットの第9話で正規職についていないことに後ろめたさを感じるメンバーに対して、巻さんが言ったことわざ「咲いても咲かなくても花は花」は正に基本的自尊感情を表す言葉だろう。
「咲かなければ花ではない」と考えているから私はパワーゲームから降りられない。
また近藤先生はどちらの自尊感情も必要だと主張する。
基本的自尊感情だけが高いと、成長意欲のないマイペースな気質になってしまう。
それより怖いのが社会的自尊感情ばかりが高いタイプだ。
基礎ができていないので、自分の存在価値を高めるのは周りからの評価か優越しかない。
それを得るために、彼らは常に力を抜かずに必死で頑張り続ける。
しかしそうして得た社会的自尊感情は、自分よりも優れた人に出会ったり、失敗したりしたとき、風船がはじけるように簡単に失われてしまう危険性を孕んでいるのだ。
3.ゆるく頑張る力
カルテットの4人は、そのどちらもが高い。
自分たちは‟咲かなくても花であり”、なんなら‟穴が開いているから(ドーナツになって)良い”と自分たちの短所も受け止める。
過去どんなことがあっても今が良いからいい、とありのままの自分を認めている。
一方で自分たちの演奏を褒められれば喜び、そして絶え間ない努力をする。
マイペースでも、張り詰めた風船でもない、「ゆるく頑張る力」を持っている。
ちなみに基本的自尊感情は、身近な誰かと一緒に映画を見たり、ご飯を食べたり、同じ体験を共有する‟共有体験”によって育まれるそうだ。
体験を通して嬉しさや悲しさを一緒に感じ、共有することで、「自分の感じ方は間違っていない」という安心感が生まれる。
その積み重ねによって、「自分はこれでいい」と受け入れることができるのだ。
とりあえず身近な人とレモンをかけた唐揚げを食べて、その気持ちを共有してみよう。
子どもの自尊感情をどう育てるか そばセット (SOBA-SET) で自尊感情を測る
- 作者: 近藤卓
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- 発売日: 2013/02/28
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わたしとアダルトビデオにまつわる真面目なお話
久しぶりの更新だが、性にまつわる話をしたい。
今の日本は性についてオープンではない。
ヘテロ男性のほとんどが日常的にアダルトビデオを見ているにもかかわらず、
昨日の晩何を食べたかは話題にするのに、昨日の晩どんなアダルトビデオを見たかは話題に上らない。
もちろんそこには恥じらいなどがあるのかもしれないが、それ以上に性にまつわるものは「汚いもの」「悪いもの」というイメージがつきすぎているのではないか。
そのため性にまつわる正しい知識を学ぶ機会が、私たちには足りていない。
コンドームのつけ方を学んでいないために避妊ができない。
正しい方法を知らないために刺激の強いマスターベーションを繰り返し、膣内射精障害や、悪くすれば難治性のEDになる。
男性が女性を一方的にせめるAVばかり見て、パートナーと充実したセックスができない。
性的な媒体に何か問題があるのであれば、その消費者たるぼくら男性陣が取り組まなければならないし、
問題がないのであれば、じめじめとした世界から当たり前の営みとして、とらえ直すべきなのではないか。
そんな思いから今週末こんなイベントを、主宰する団体で開催します。
よければご参加ください。
男の討論会「男とアダルトビデオ」
【日時】2017/3/4 (土) 15:30-18:30 (会場受付15:20から)
【場所】エルパーク仙台セミナー室
【定員】30名
【参加費】無料
【申込み】不要 (直接会場にお越しください)
【備考】今回の参加は男性の方に限ります。
【日時】2017/3/4 (土) 15:30-18:30 (会場受付15:20から)
【場所】エルパーク仙台セミナー室
【定員】30名
【参加費】無料
【申込み】不要 (直接会場にお越しください)
【備考】今回の参加は男性の方に限ります。
神輿、獅子舞など、いろんなコンテンツを含んだそのお祭りには「男根崇拝」の時間もある。
男性器をかたどった大きな彫刻に、女性たちが安産を祈念してまたがるのだ。
そこに参加する住民たちの顔は男女問わずとっても楽しそう。
誰にも気負いすることなく、性にオープンになることは、確かにできるのだ。
限界集落から、まちづくりについて考えること。
居住10世帯、高齢化率100%の紛れもない限界集落だ。
先日ボランティアで訪れた。
ナミイタ・ラボという住民たちが集まれる施設で、住民のおじいさんたちがのんびりとまちづくりを考えている。
個人的に「まちづくり」という分野は、何を目的としているのかわからない自称デザイナーたちのなんちゃってイベントにかき回されたり、「雇用促進」や「助成金獲得」など資本主義的な思惑に絡め取られたりして、現地の住民の存在が薄くなっている印象がある。
作物を食べる鹿よけの柵を作り、畑を耕し、夏は海で岩ガキを獲る。
昔からの自分たちの生活を取り戻し、自然環境をいかしてより楽しいものにする。
そのために外部の力をすこし借りる。
なんなら一緒に楽しんでもらう。
そんな住民主体のまちづくりがあってもいいんじゃないか。
そんなふうに思わされる土地だった。
この綺麗な海に、夏、また泳ぎに来たい。