フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

男の居場所のつくりかた(3)「第1回男の勉強会」

前回の「男の居場所のつくりかた」からだいぶ時間がたってしまった。
シリーズの第3弾である。
 
 
男の勉強会を開くことした私たちは、まず仙台市男女共同参画センターに団体登録した。
専門の人たちに意見をいただきつつ、センター内のスペースで勉強会を開こうと考えたからだ。
ジェンダーなどに関心のある人が集まってくるのでは、という思惑もあった。
 
Facebookで団体ページを立ち上げ、イベント告知をしたら参加者集めである。
以前の職場の同僚や、ボランティア仲間、ニート時代お世話になったキャリアカウンセラーさん。 とにかく様々な男性たちに呼びかけた。
 
参加者は男性(正確には「性自認が男性よりの人」)だけに絞った。
男性性について語るとき、女性がいては恰好をつけたり、上回ろうとしたりして、男の「本音」の部分が出てこないのでは、と考えたからだ。
 
そして7月12日、第一回男の勉強会当日。
最悪私と相方の2人だけになるのでは…とも思っていたが、6人の方(男だけで6人も!)に参加していただいた。
 
まず自己紹介の時間。
ここで早速男たちの「男らしさ」が光る。
自己紹介の内容が(私も含めて)ほぼ「肩書の説明」になってしまうのだ。
 
「このような職場でこのような役職でこのような仕事をしてきました…。」
 
その人がどんなことが好きで、どんなふうに日々過ごし、何を考えているのかが全く分からない。
男たちがいかに何気ない会話をできないかがよく見えた。
 
この日のテーマはずばり「男らしさとは何か」
 
どんな時に自分が男だと感じるのか、自由に語り合った。
 
こうしたフリーのディスカッションで一般論が多くなるのもおそらく男性限定特有のものだろう。
 
「男というのは…」「現代社会では…」
 
と「すべての(多くの)人はこうである」という論調にどうしてもなってしまい、「私は…である」といったように自分の話になかなかならないのだ。
 
 
ちなみにこのお題では「女性を守ろうとするとき」男性性を感じる、という話が多く出た。
寒い夜道でコートをかけてあげる、食事をご馳走する、歩いているとき道路側を歩くなど。
 

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サービス系、IT系の仕事が主流になったポスト工業化の現代では、「筋力」が重宝されることはなくなった。
終身雇用制度がなくなり男性も安定した仕事につきにくくなった今、「経済力」を男が胸をはって誇示できるわけでもない。
 
何をもって男は女性を「守る」のか。
今まで男たちが依り代にしていた力や制度は、だんだん依り代としての効果を果たさなくなってきたのではないか。
もしかしたらコミュニケーションがあまりうまくない、実は甘えたいなどの人としての“弱さ”をカバーするものとして、女性に対して格好をつけるという手段を使っているのではないか、というところまで話は発展した。
 
勉強会は初回にもかかわらず盛り上がった。
この時参加してくれた方々は今もリピーターとして参加し続けてくれている。
 
様々な課題は見えつつも、確かな手ごたえを感じた。
 
 
※次回は第2回男の勉強会「男と愚痴」について書きます。
 
<Re-Design For Men>
「男が女性をリードすべき」「男は弱音を吐いてはならない」など、男かくあるべしという固定観念に縛られているために、男性は周りの人に自分の考えを押しつけたり、時には自分自身がしんどくなったりすることがあります。
そんな意識をゆる~くときほぐすため、月1回、男性の男性による男性を考えるための勉強会を開催。
20代から60代まで、学生、ニート、フリーター、サラリーマンなど、様々な年齢・背景の男性たちが集まり、「性欲」「仕事」「プライド/劣等感」などをテーマに気ままに語り合っています。
会の中でいろんな人の視点に触れ、「こう考えることもできるのか」と気付くことで自分の‟男性性”を作り替え(=Re-Design)、より生きやすくなることを目指します。
 
<今後の予定>
第9回男の勉強会「男と暴力」
【日時】2017/2/25 (土) 18:00-20:00 (会場受付17:50から)
【場所】仙台市市民活動サポートセンター 研修室1

合コンで研究データを集めるのはやめてください。

「語る」をテーマに居場所をつくる活動をしていて難しいのは、プライバシーの問題である。
 
 
固定メンバーではないテーマ型のコミュニティを維持するうえで発信は欠かせない。
新しい人を呼びこんだり、資金を集めなければならない場合、「何をしているか」をしっかりと発信しなければ新規参加者やスポンサーに伝わらないからだ。
 
しかし、「ここだから話せる」「ここなら素の自分でいられる」という要因によって安心感が生まれるコミュニティの場合、参加者の写真や言動を発信するのは、慎重にならなければならない。
何気なく語ったことを無許可で発信されたら、そのコミュニティは一気に危険なものになる。
 
 
その重要性を気づかせてくれたのは、ある不思議な合コンに参加した経験である。
 
大学の友人に「4対4の合コンを友だちが開くのだがメンツが足りないので来てほしい」と誘われた。
恋人もいなかったので断る理由もなく、(むしろバラ色の結果を多少期待して)参加した。
 
待ち合わせは店ではなく近くの広場。参加者は全員大学生だった。
 
しかし何かがおかしい。
 
その場には8人ではなく9人いるのだ。
どうしたって1人余る…。
 
妙なことはさらに続く。
 
幹事(友人の友人)の女の子が参加者全員にアドレス交換をしたうえで、
『今どんな気分ですか?』
とメールを送ってくるのである。
 
不思議に思いながらも
『緊張した気分です。』
と無難な返信をし、全員で店へ向かった。
 
9人でどう座るのかと思っていたら、幹事ちゃんが「〇〇さんはここ、〇〇くんはここ」とかっちりと席指定をし始めた。
どうやら事前に考えていたらしい。
そして本人はと言うと長方形のテーブルの、いわゆるお誕生日席に陣取った。
 
決まっているのは席だけではない。
全員の飲み物が届くなり
「では今から隣に座っている異性の人と話してくださーい。時間は30分ですっ☆」
と幹事ちゃんが宣言した。
 
もう始まったからにはこの奇天烈な30分会話タイムに乗るしかない。
 
シーザーサラダを口に運びながら私は隣の黒髪の女の子との会話に興じた。
 

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しかしおかしい。
 
隣同士で話しているなら、席配置的に幹事ちゃんは1人余ってしまうはずだ。
彼女はこの時間何をしているんだ…?
とふと目をやると、メモ帳か何かにかりかりと何かを書いている。
本当に不思議な人だ。
 
30分経ったら次も同じ要領で別の女性と話した。
幹事ちゃんは相変わらずだ。
 
合コンでよく男性参加者の課題として挙げられるのが、同じ女性に好意を持つことだろう。
それを避けるために男性は途中で一緒にトイレに行って打ち合わせしたり、自分のお箸を好みの女性に向けて示し合わせたりする、と何かで読んだことがある。
なんともアホらしいがそこが男の悩みどころらしい。
 
が、なんとも丁寧なことに幹事ちゃん考案の合コンタイムスケジュールには、同性内打ち合わせタイムが盛り込まれていた。
 
「じゃあ男の人は右側、女の人は左側に集まって、今どんな感じか話し合ってくださーいっ☆」
 
面食らいすぎておどおどする私たちを追い打ちするように幹事ちゃんの奇行は続く。
 
再度メール連絡である。
『今の気分は? 気になった女の子がいたら教えてください』
 
ははあ。なるほど。
幹事ちゃんはとんでもない善人で、恋を求めてさまよう男女のキューピッドとして仲介者のような立ち回りをとろうとしているのか。
 
いや、しかしそれにしてはあまりに事前準備に余念がなさすぎる…。
 
 
幹事ちゃんの一連の怪行動の意味が分かったのは合コンの後半が始まった頃であった。
 
参加者の一人が頼んだドリンクが届けられた時、幹事ちゃんが彼に聞いたのである。
 
「それ何頼んだの?☆」
「え・・・カシスウーロンだけど・・・」
「カシスウーロンね!☆」
 
と言いつつ幹事ちゃんは例のメモ帳におそらく『カシスウーロン』と記入した。
 
 
私はハッとした。
 
こ、これは…
 
データをとられている!!!!
 
私たちの言動から態度、どのタイミングで何を頼んだかまで。
合コンが始まってからの参加者の動向や感情がすべて彼女のメモ帳に記録されている。
 
軽い気持ちで来たつもりが合コンという名のゲージに入れられたモルモットにされていたのだ。
 
大学の研究論文などに用いるのか?
だとしたらこのような感じだろうか。
 
 
研究テーマ:異性間交流における初対面の大学生の行動観察
 
目的:初対面の男女が短期間のうちにいかにして関係性をつくり、どのような感情の起伏がおきるのか探る。
 
方法:合同コンパという形で8人の男女を集め、2時間、30分刻みで偏りなく会話をしてもらい、初め、中頃、終わりの3回にわたり、その時点での気持ちの変化を教示してもらう。またどのような発言内容や行動があったかを記録する。
 
 
究極のプライバシー搾取である。
 
私は完全に興を削がれ、その後どうずごしたかほとんど覚えていない。
もちろん幹事ちゃんから終了後の質問メールも来たが、なんと返したかも覚えていない。
バラ色の結果どころではない。揚々と参加したはずが、怒りか呆れか、どちらにしろ後味の悪さだけが残った。
 
 
コミュニティやイベントの際、その内容を記録・発信する場合、どうして記録するのか、記録したものをどう使用するのかを参加者に伝えるのは最低限のマナーである。
それをないがしろにされた人がどう感じるのか、幹事ちゃんの合コン研究によって痛いほど思い知った。
 
自分のしたい研究や発信に夢中になればなるほど、関係者をないがしろにしてしまう可能性がある。
なんの説明もなくカシスウーロンを記録するようなことのないよう気を付けたい。
 
 
そしてもう一つ最後に言っておきたい。
 
合コンに参加して最初に確認しなければならないのはタイプの異性がいるかどうかではない。
 
 
参加者の数が奇数ではないか、ということである。

ネオ・意識高い系を打ち崩すのはオタクである。

ネオ・意識高い系の台頭
 
「敷かれたレールに沿って生きているのはカッコ悪い」
 
ブログの内容には様々な種類があるが、このような「意識高い系」をさらにこじらせた文言をよく見かける。
 
Wikipediaによれば「意識高い系」とは、‟自分を過剰に演出(いわゆる「大言壮語」)するが中身が伴っていない若手、前向き過ぎて空回りしている若者、インターネットにおいて自分の経歴・人脈を演出し自己アピールを絶やさない人”などを意味する。
意識高い系」はあくまで‟自分を”持ち上げたり鼓舞したりするだけにとどまる。
 
しかし中には「意識高い系」をこじらせ、新しい働き方についての自分の理論を過剰にアピールするあまり、既存の働き方のあり方をドヤ顔で非難する人がいる。
他人にまで自分の理論を押し付けるそうした部類の人たちのことを、ここでは「ネオ・意識高い系」と呼ぶことにしよう。
 
彼らはブロガーや起業家など雇用者にならず「やりたいことを仕事にすること」を至上のものとし、「やりたいことを追求できないなんて可哀想」とサラリーマンをしたり顔でこき下ろす。
 
その半分以上が「ブロガーや起業家はイケてる」というレールに乗っているのでは…という印象を持っているが、今回はその話題は置いておく。
 
今回のテーマは「やりたいことは仕事でないとできないのか?」ということである。
 

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岡本太郎が教えてくれたこと
 
芸術は爆発だ」で有名な日本を代表する芸術家岡本太郎著作『自分の中に毒を持て』は一見ネオ・意識高い系のバイブルのように読める。
 
何かをつらぬこうとしたら、体当たりする気持ちで、ぶつからなければだめだ。
体当たりする前から、きっとうまくいかないんじゃないか、自分で決めてしまう。
愚かなことだ。
ほんとうに生きるということは、自分で自分を崖から突き落とし、自分自身と闘って、運命をきりひらいていくことなんだ。

 

さすがである。
チャレンジにチャレンジを重ねてきた不屈のアーティストだからこその言葉だ。
 
しかし岡本太郎はこうも続ける。
 
あきらめるんではなく、気が弱いんだと思ってしまうんだ。
そうすれば何かしら、自分なりに積極的になれるものが出てくるかもしれない、つまらないものでも、自分が情熱を賭けて打ち込めば、それが生きがいだ。
他人から見ればとるに足らないようなバカバカしいものでも、自分だけでシコシコと無条件にやりたくなるもの、情熱をかたむけるものが見出せれば、きっと目が輝いてくる。
・・・
何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。

 

自分の「やりたいこと」は必ずしも誰かに認めてもらう必要はない、というのだ。
仕事は誰かからの需要があって初めて稼ぎにつながる。
 
つまり岡本太郎の考える「やりたいこと」は別に仕事でなくてもいい。
稼ぎを得るためのワークとは別に、達成感や自己実現を得るためのワークがあっていいというわけだ。
(もちろん稼ぎを得るためのワークで達成感も得ることはある。)
 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

 
 
スナガくんのライフスタイル
 
この内容を読んだ時、私は友人のスナガくんを思い出した。
大学生4年生のスナガくんは、絵にかいたように真面目な男で、単位もしっかりとり、就活も危なげなく成功。来春から地方公務員になることが決まっている。
中学・高校・大学とストレートで進みレールを着実に進んできた、ネオ・意識高い系から見れば正にカッコ悪い部類だろう。
 
しかしこのスナガくん。なかなか人にはない趣味がある。
球体関節人形鑑賞である。
 
球体関節人形とは、石粉粘土、素焼きなどでフォルムをとことん人間らしく作り上げ、関節部分に敢えて球体を目立つよう入れ込む人形のことである。
 

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人間と見紛うばかりのビジュアルに、人間離れした球体。
そのギャップに、芸術性を感じるのだという。
 
正直ほとんどの人がハマる趣味ではない。
むしろ人によっては敬遠するジャンルかもしれない。
しかし彼は球体関節人形に情熱を抱いており、イキイキとその魅力について語ってくれた。
 
「企業社会に縛られないノマドな生き方がいい」と言ってすぐにブログを始め、アフィリエイトや広告収入を得ることに固執するようなネオ・意識高い系よりも、就活をきちんとしながら球体関節人形を愛するスナガくんのほうが、よっぽど「やりたいこと」ができているのではないか。
 
また真面目なスナガくんも、オタクなスナガくんもどちらも間違いなくスナガくんであり、その二面性は個人の中で共存できることを、彼のライフスタイルを見て私は知った。
 
社会学者の田中俊之先生によると、人の日常生活は
「職業領域」:収入の獲得
「地域領域」:生活の豊かさ
「家庭領域」:衣食住の共有
「個人領域」:プライベートな時間
の4つに分類され、
全ての領域に全力で向き合っていたら身体がいくつあっても足りません。
それでも、どの社会領域にも目配りをすることは可能なはずです。
だという。
(田中俊之『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』)
 

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人はどれか1つの領域でしか活動できないわけではない。
また、稼ぎと自己実現は必ずしも同じ領域で得なければならないわけでもない。
稼ぎは職業領域から、自己実現つまり「やりたいこと」は個人領域や地域領域で満たせばいい。
それが可能なことをスナガくんの二面性は見事に実証したのだ。
 

男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学

 
やりたいことがそのまま仕事になればいいだろうが、それが叶う可能性は低い。
職業領域で十分な自己実現を得られないのであれば、他の領域で得たらいい。
岡本太郎が言うように、「やりたいこと」は仕事・芸術など何も大仰なものでなくてもいい。
映画を見てみたり、音楽を聴いたり、ランニングしたり。
それも立派な「やりたいこと」だ。
 
それでも見つからないというなら、まず手始めに球体関節人形を始めてみるのはいかがだろうか。

おにぎりせんべいの恐怖~パワハラの原理~

なんとも陽気なタイトルであるが、私が体験したことをもとに、パワーハラスメントとは何か、なぜ起こるか、などをまとめておきたいと思う。
 
 
パワハラのはじまり
 
新卒で関西の企業に入社した私は総務部に配属され、新社会人生活が始まった。
 

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4大卒の男性社員ということもあって、将来を期待されていた私は意気揚々と仕事に取り組んでいた。
初め穏やかだった直属の上司との関係に変化が現れたのは入社半年後ほどである。
 
柔らかかった彼の態度はどんどんピリピリし、私が仕事でミスをすれば、舌打ち、睨み、時には「殺すぞ」など暴言を向けられることが増えてきた。
 
段々と私は出社するのがイヤになり、職場に近づくと気持ちが沈んでいった。
 
 
暴力には
身体的暴力(殴る・蹴る、髪を引っ張る)
経済的暴力(お金を無理に出させる、生活費を渡さない)
性的暴力(性行為を強要する、避妊に協力しない)
精神的暴力(大声で怒鳴る、無視する、人格を否定する、脅す)
社会的暴力(他者との交際を制限する)
 
など様々な種類があり、どれもまぎれもなく暴力であり(いじめも暴力であると言える)、この上司の言動は精神的暴力に当てはまるだろう。
 
これだけ一方的にやられているのであれば逃げるか訴えるかすればいいだろうとも考えられるが、パワーハラスメントの恐ろしさは、一方的な暴力に終わらないところにある。
 
ある日、何かでこっぴどく怒られた私は倉庫掃除を言い渡された。
怒りと悔しさを感じながら作業を進め、ひと段落着いたところでデスクにかえって来ると、そこにはおにぎりせんべいが4枚ほどそっと置かれていた。
その横で上司がおにぎりせんべいを食べている。
 
このとき私はとてつもない安堵感に包まれていたと思う。
「厳しいながらも、上司は私を大切に思ってくれている」と…。
 

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こうして文字に起こして読み直すと改めてぞっとするが、この状態はDVのそれと同じである。
ひとしきり相手を殴った後に、「お前がいないとだめなんだよ…」と言うあれである。
 
前者を緊張期、後者をハネムーン期と言い、加害者はこの飴と鞭を本能的に、時には意識的に巧みに組み合わせて使ってくる。
これにからめとられた被害者は
「いつもは厳しいけれど本当は優しい一面があるんだ…」と、相手の優しさに期待し、逃げることができないというか、逃げる気が起きないのである。
 
 
パワハラから逃れられない原理
 
・・・ソフトに書くつもりがとんだホラーストーリーになりつつある。
 
あえてこの話題を発信しようと思ったのには理由がある。
 
その会社を辞めて一年後くらい、文脈は忘れたが就職前の大学の後輩と出会ったときパワハラの話になり、上述の話を彼にしたことがあった。
気をつけるように、という意味も含めて。
すると彼は自分の精神力に自信があるのか、さらっと「僕は大丈夫なんで」と答えた。
 
この彼の考えの裏には「パワハラは精神的に弱いものが被害を受け、強ければ弾き返せる」という思いがあったのだと思う。
しかし実は、精神力の強さに関係なく、誰しもが被害者になりうるということを伝えておきたかった。
 
人は普段の生活の中で自分は安全だと思っている暮らしている。
自分の命や心に危険が及ぶなんてことはみじんも思っておらず、自分の思うままに過ごしている。
 
しかし例えば突然他人にナイフを向けられるとどうだろうか。
刺されないように、抵抗もせず相手の指示に従順に従う人が多いだろう。
 
パワハラでは精神的暴力がナイフとなる。
相手から攻撃的な言葉や態度を向けられることで、それまで当たり前だった自分の「安全性」は、常に脅かされるようになる。
 
するとできるだけ安全でいたいがために、被害者は相手に気にいられようとする。
実際私も上司の冗談に対して極端に笑い声を上げたり、相手の指示に対して過剰に素早く動いたり、へつらったりしていた。
今思い返すと痛々しいが、これは安全な環境で過ごしている誰にでも起こってしまうことを知ってほしい。
 
パワハラを防ぐには 
 
さて、ではどうすればパワハラを止められるか。
 
1つは、自分を傷つけてくる相手に期待をしないことである。
「今は厳しいけれどいつかは…」と思い続けても、人の性格はなかなか変わらない。
相手の攻撃性に気づいたらさっさと逃げるか、もし逃げられない状況なら、労働組合や相談機関などを利用してできるだけ攻撃されずに共存できる方法を探る。
 
同時に相手のパワハラの原因は自分ではない、としっかり思うことも重要だ。
「仕事が遅いから」「数字をとってこないから」などパワハラ加害者は様々な理由をつけてくるだろう。
すると「私がもっと仕事できればこんなに責められることはない。私が悪いんだ…」と自分を責めてしまう。
 
しかし部下の仕事を改善するために、暴力をつかう必要は全くない。
根気強い指導や部署替えなどいくつか方法がある中で(しかも相手を傷つけない)、敢えて暴力を用いるのはやはり加害者の問題だ。
 
また、周りの人が暴力のある状況を当たり前にしないことも大切だろう。
私の場合、周りのどの社員もその上司が私に暴言を吐くのを止めてはくれなかった。
そして終わった後で「あの人、ああいう人だからさ~」と毒にも薬にもならないフォローをしてくる。
関わりたくないからか、そして関わりたくない自分の罪悪感を紛らわすためか、人はパワハラを「そんなにたいした問題ではない」と片づけてしまう。
 
しかし間違いなくその時パワハラを受けている人は傷ついている。
未だに私はその会社の近くを通るたび心がふさぐ。
 

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同僚がパワハラを受けていることに気づいたら、別の上司に進言したり、
それが難しいのであれば、被害を受けている同僚に「あなたは悪くない」と言ってあげる。
それだけでどれだけその同僚は救われるだろう。
 
心の弱い一部の人だけに起こるどうしようもない問題ではなく、誰にでも起こる、そして取り組み方次第で解決していける問題として、私たちはパワハラをとらえ直さなければならない。

しずかちゃんに見るジェンダースタディー

「男・女とはこういうもの」という固定的な性別の枠組み、ジェンダーステレオタイプ(性別固定観念)。
 
「プロポーズは男がするもの」といったように、私たちはそれを当たり前として暮らしているので、なかなかその存在に気づかない。
朝日新聞が先日「女子力」についての特集を組んだが、一体「女はこうあるべき」と考えることのどこに問題があるのだろうか。
 
 
今回は藤子不二雄の大傑作『ドラえもん』のキャラクター、しずかちゃんのプロフィールと、作品内のエピソードをもとにジェンダーを考えてみたい。
 

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プロフィール
ドラえもんメインキャラの紅一点、しずかちゃんは24時間ピンクの服をまとい、1日少なくとも2回は風呂に入る綺麗好き。
趣味はピアノとバイオリン。
面倒見もよく、「放っておくと心配だから」という理由でのび太くんと結婚するという、優しさを絵に描いたような存在だ。
勉強もでき、成績も優秀だが、注目すべきはそれでも出木杉くんよりは劣るという点である。
 
「良妻“賢”母であるべき」だが「男の一歩後ろを歩くべき」
 
という当時の(今も?)社会が作り出した女性像の抱える二律背反を如実に反映している。
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エピソード1「しずかちゃんは留守番を頼む」
映画版のドラえもんエピソードでは、しずかちゃんはとにかく留守番要員として扱われることが多い。
ストーリーに深くかかわってきたはずなのに、敵との最終局面で裏方に回されるのだ。
 

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日本の近代以前は農業という形で夫婦共同で働くことが当たり前だった。
ところが産業革命以降、工場労働がメインの産業になり、シフト通りに安定した労働力を出すことが必須になると、男女どちらかが育児やパートナーの健康管理をする必要がでてきた。
そのため子どもを出産できる女性がそのサポーター役に収まり、それが現代の「女性は男を支えるもの」というイメージを作り上げたという。
 
エピソード2「のび太くんへの抑圧」
しずかちゃんばかりが男から一方的に「こうあるべき」と抑圧されている訳ではない。
彼女ののび太へのプレッシャーもなかなかのものである。
全編通して、ジャイアンスネ夫に追われ、しずかちゃん宅に逃げ込むのび太を「男らしくないわ」と非難することがままある。
安全基地だと思っていたしずかちゃんからも突き放され、のび太は「男らしく」あるために、腕っ節では歯が立たないジャイアンに挑むしかないのであろうか…。
 

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エピソード3「女性役割から解放される時」
自分も他人もジェンダーステレオタイプの枠にはめ込むしずかちゃんだが、実は彼女は「(いわゆる)女性らしくありたい」と心から願っている訳ではない。
 
コミックス42巻『男女いれかえ物語』はドラえもんの秘密道具「入れ替わりロープ」によってのび太としずかちゃんの中身が入れ替わってしまうというエピソードである。
 

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寝相や話し方など女性的にふるまうようしずかちゃんのママに叱られ、辛い思いをするのび太(身体はしずかちゃん)に対し、のび太の、男性の身体を手に入れたしずかちゃんは
「一度やってみたかったの」と野球や木登りに大いに興じる。
 

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それまでは‟女性らしく”という理由から、本当はしたいのにできなかった。
それが女性の殻を捨てたことで、ようやく彼女の願望は解放されたのである。
 
ここまで見てきたようにジェンダーステレオタイプは選択の自由を奪い、したくないことをしなければならない不自由さを強要する。
 
藤子先生がレイシストなわけではもちろんない。
むしろ「男女いれかえ物語」は男女共同参画に大きな示唆を与える作品だ。
それでも藤子先生含め、世間には「男・女はこうして当たり前」という風潮が広がっており、それは現代でも依然として残っている。
 
もちろん女性はピアノやヴァイオリンをしてはいけない、というわけではない。
世間の風潮や、周りからの意見の押し付けに縛られず、個人の自由で自分のしたいことを選択することが大切だと思う。
 
木に登りたければ木に登れる社会が、やはり良い。

子どもの貧困における最も大きな問題とは

子どもの貧困。
今日本が抱える大きな問題の一つであり、近年流行している子ども食堂などの支援の輪が大きく広がっている福祉分野だ。
 
2年という短期間ではあるが、私も貧困世帯の中学生の居場所支援を行っていたことがある。
食事を満足にとることができない、塾など充実した学習機会がない、など様々な問題があげられているが、私は彼らの自尊心の低さを特に問題視した。
 
彼らは自分自身に対し、驚くほど投げやりだ。
 
「自分なんかどうなったっていい」
「勉強してどうなるの?」
「別に生きている意味ないし」
 
不真面目だからではなく彼らには未来を考える余裕そのものがないように感じた。
 
 
哲学者の鷲田清一先生は、母校の小学校の校舎が丁寧に、立派に作られていたことを引き合いに、自尊心とは‟他人がじぶんを大切に思ってくれていると思えるときに湧き上がってくる”と説く。
 
わたしはむかしと変わらぬ教室の佇まいを見つめながら、しみじみとおもった。
むかしの大人は、子どものことだからどうせすぐに傷めるだろうと、手すりを、床板を、安造りにはしなかった。
逆に、子どもが昼間のほとんどを過ごす場所だから、丁寧に、立派に造っておいてやろうと考えた。
そういう気配のなかでわたしたちは幼い日々を送った。
そのときはそんなことは感じてはいなかっただろうが、気配は皮膚の下までたっぷりとしみ込んでいったはずだ。
他人にそのように大事にされてはじめて、ひとはじぶんを粗末にしてはいけないとおもえるようになる。
そう、「自尊心」は他者から贈られるものなのだ。

 (鷲田清一『自由のすきま』)

貧困家庭の子どもたちは、その多くが一人親家庭(特に母子家庭)で育ち、しかも母親はダブルワーク、トリプルワークでほとんど家にいない。
いても仕事の疲れで余裕もなく、子どもがかまってもらえる時間は少ないだろう。
 
食事や学習機会だけではない。
他人に大切にされる体験が、貧困子どもは圧倒的に少ないのだ。
 

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子どもたちが通うまなび場でこんなことがあった。
 
いつも憎まれ口を叩く中学生の男の子。
横について数学を教えていると、
 
「なんだよそれ分からねーよ、にっしー(私はにっしーとよく呼ばれていた)まじ嫌いだわ。」
 
「俺は◯◯のこと好きやけどな。」
 
「は⁉︎きもっ!!!」
 
このやりとりが何度か続いた。
 
「にっしーうぜえわ」
 
「けど、俺は好きやなあ」
 
そして何度目かに
「嫌いだわ〜」という言葉に
 
「そうかあ、、」
 
とだけ言うと
 
「…え⁇ 好きって言わないの…?」
 
 
かわいいな!おい!
言ってほしいんか!
 
誰かに大切にされるという経験が少ないからこそ、彼は私のメッセージにどこか安心感を感じたのかもしれない。
 
 
あいさつをする。
名前を呼ぶ。
横にすわる。
話を聞く。
相手への思いを伝える。
 
単純なことだけれど、相手を1人の人としてちゃんと応じる。
そうすることで、目には見えないけれど、彼らの中にあたたかな栄養がたまっていくのでないだろうか。
彼らが成長したとき、それがいくらかの自信につながったらいいな、と今ふりかえって思っている。
 

 

「自由」のすきま (単行本)

「自由」のすきま (単行本)

 

 

弱さを知るには-わたしの場合-

「弱さ」シリーズ。
最後は私がいかに自分の弱さ、自分の限界点に気づいたか、というお話。
 
以前貧困家庭の子どもの学習支援に携わっていた。
週に2回、まなび場に決まった子どもたちが集まりおしゃべりしたり、勉強したりしに来る。
 
ある男子中学生の学習計画を立てるために本人と面談した時のことである。
 
 
「よしじゃあ今後目標にしたいことはある?」
 
「うーん…頑張る!」
 
「よし!どう頑張ろう?」
 
「うーん…頑張る時間をつくる!」
 
「ぃいよし!頑張る時間てどんなかんじ?」
 
「ぐで~とするんじゃなくて~ペンをもってきっちり座って勉強する!」
 
「ぃぃぃぃぃぃいよぅし!1日どれくらい頑張る時間作ろうか?」
 
「5分!!」
 
「ん?」
 
「5分!!!!!」
 
「ご、5分か…。もももうちょっといけるんじゃないかしらん?30分くらいとか…」
 
「いや!5分!」
 
「常識的に考えたらたぶんもうすこしできるんちゃうかな…」
 
「いや!5分!!!!!」
 
「そそそっそそそそうか!うん!5分にしよう!」
 
 
というやり取りがあった。
 
集中する時間が1日5分…。
中学2年でそれでいいのか、いいのか…と私は思わずにはいられなかった。
しかし彼は自分の主張を変えることはなかった…。
 

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「中学生なら最低30分は集中すべき」というのは言ってしまえば私の価値観に基づいた言説である。
それを‟常識”という根拠のない強権を盾に私の考えを押し付けようとした。
 
私の描く‟常識”に彼は縛られず、自分の思いをしっかりと伝えてきた。
よくよく振り返れば、普段勉強をほとんどしない彼が「5分でもする」と言い出したのは大きな一歩である。
 
彼の価値観に触れ、私は「自分の思い通りにはならないことが、ある」と気づいた。
 
 
普段の生活の中で他人(ひと)の考えや思いを深く知る機会はあまりない。
むしろ自分のそれと他人のそれがぶつかることを恐れ、出すことを控えることが多いかもしれない。
 
本音をぶつけ合える、そんな関係性が中学生の彼と私の間にあった。
 
「弱さ」。
それは他人との対等な関係から見えてくると、私は思う。