フツウをかきまぜる日々

“ひと”にまつわる事柄を、自分の経験とマンガや映画などを絡めて描きます。

しずかちゃんに見るジェンダースタディー

「男・女とはこういうもの」という固定的な性別の枠組み、ジェンダーステレオタイプ(性別固定観念)。
 
「プロポーズは男がするもの」といったように、私たちはそれを当たり前として暮らしているので、なかなかその存在に気づかない。
朝日新聞が先日「女子力」についての特集を組んだが、一体「女はこうあるべき」と考えることのどこに問題があるのだろうか。
 
 
今回は藤子不二雄の大傑作『ドラえもん』のキャラクター、しずかちゃんのプロフィールと、作品内のエピソードをもとにジェンダーを考えてみたい。
 

f:id:pagonasofa:20170126115004j:plain

 
 
プロフィール
ドラえもんメインキャラの紅一点、しずかちゃんは24時間ピンクの服をまとい、1日少なくとも2回は風呂に入る綺麗好き。
趣味はピアノとバイオリン。
面倒見もよく、「放っておくと心配だから」という理由でのび太くんと結婚するという、優しさを絵に描いたような存在だ。
勉強もでき、成績も優秀だが、注目すべきはそれでも出木杉くんよりは劣るという点である。
 
「良妻“賢”母であるべき」だが「男の一歩後ろを歩くべき」
 
という当時の(今も?)社会が作り出した女性像の抱える二律背反を如実に反映している。
 f:id:pagonasofa:20170126114744j:plain
 
エピソード1「しずかちゃんは留守番を頼む」
映画版のドラえもんエピソードでは、しずかちゃんはとにかく留守番要員として扱われることが多い。
ストーリーに深くかかわってきたはずなのに、敵との最終局面で裏方に回されるのだ。
 

f:id:pagonasofa:20170126112424j:plain

 
日本の近代以前は農業という形で夫婦共同で働くことが当たり前だった。
ところが産業革命以降、工場労働がメインの産業になり、シフト通りに安定した労働力を出すことが必須になると、男女どちらかが育児やパートナーの健康管理をする必要がでてきた。
そのため子どもを出産できる女性がそのサポーター役に収まり、それが現代の「女性は男を支えるもの」というイメージを作り上げたという。
 
エピソード2「のび太くんへの抑圧」
しずかちゃんばかりが男から一方的に「こうあるべき」と抑圧されている訳ではない。
彼女ののび太へのプレッシャーもなかなかのものである。
全編通して、ジャイアンスネ夫に追われ、しずかちゃん宅に逃げ込むのび太を「男らしくないわ」と非難することがままある。
安全基地だと思っていたしずかちゃんからも突き放され、のび太は「男らしく」あるために、腕っ節では歯が立たないジャイアンに挑むしかないのであろうか…。
 

f:id:pagonasofa:20170126112520j:plain

 
エピソード3「女性役割から解放される時」
自分も他人もジェンダーステレオタイプの枠にはめ込むしずかちゃんだが、実は彼女は「(いわゆる)女性らしくありたい」と心から願っている訳ではない。
 
コミックス42巻『男女いれかえ物語』はドラえもんの秘密道具「入れ替わりロープ」によってのび太としずかちゃんの中身が入れ替わってしまうというエピソードである。
 

f:id:pagonasofa:20170125131710j:plain

f:id:pagonasofa:20170125131731j:plain

 
寝相や話し方など女性的にふるまうようしずかちゃんのママに叱られ、辛い思いをするのび太(身体はしずかちゃん)に対し、のび太の、男性の身体を手に入れたしずかちゃんは
「一度やってみたかったの」と野球や木登りに大いに興じる。
 

f:id:pagonasofa:20170125131816j:plain

f:id:pagonasofa:20170125131832j:plain

 
それまでは‟女性らしく”という理由から、本当はしたいのにできなかった。
それが女性の殻を捨てたことで、ようやく彼女の願望は解放されたのである。
 
ここまで見てきたようにジェンダーステレオタイプは選択の自由を奪い、したくないことをしなければならない不自由さを強要する。
 
藤子先生がレイシストなわけではもちろんない。
むしろ「男女いれかえ物語」は男女共同参画に大きな示唆を与える作品だ。
それでも藤子先生含め、世間には「男・女はこうして当たり前」という風潮が広がっており、それは現代でも依然として残っている。
 
もちろん女性はピアノやヴァイオリンをしてはいけない、というわけではない。
世間の風潮や、周りからの意見の押し付けに縛られず、個人の自由で自分のしたいことを選択することが大切だと思う。
 
木に登りたければ木に登れる社会が、やはり良い。

子どもの貧困における最も大きな問題とは

子どもの貧困。
今日本が抱える大きな問題の一つであり、近年流行している子ども食堂などの支援の輪が大きく広がっている福祉分野だ。
 
2年という短期間ではあるが、私も貧困世帯の中学生の居場所支援を行っていたことがある。
食事を満足にとることができない、塾など充実した学習機会がない、など様々な問題があげられているが、私は彼らの自尊心の低さを特に問題視した。
 
彼らは自分自身に対し、驚くほど投げやりだ。
 
「自分なんかどうなったっていい」
「勉強してどうなるの?」
「別に生きている意味ないし」
 
不真面目だからではなく彼らには未来を考える余裕そのものがないように感じた。
 
 
哲学者の鷲田清一先生は、母校の小学校の校舎が丁寧に、立派に作られていたことを引き合いに、自尊心とは‟他人がじぶんを大切に思ってくれていると思えるときに湧き上がってくる”と説く。
 
わたしはむかしと変わらぬ教室の佇まいを見つめながら、しみじみとおもった。
むかしの大人は、子どものことだからどうせすぐに傷めるだろうと、手すりを、床板を、安造りにはしなかった。
逆に、子どもが昼間のほとんどを過ごす場所だから、丁寧に、立派に造っておいてやろうと考えた。
そういう気配のなかでわたしたちは幼い日々を送った。
そのときはそんなことは感じてはいなかっただろうが、気配は皮膚の下までたっぷりとしみ込んでいったはずだ。
他人にそのように大事にされてはじめて、ひとはじぶんを粗末にしてはいけないとおもえるようになる。
そう、「自尊心」は他者から贈られるものなのだ。

 (鷲田清一『自由のすきま』)

貧困家庭の子どもたちは、その多くが一人親家庭(特に母子家庭)で育ち、しかも母親はダブルワーク、トリプルワークでほとんど家にいない。
いても仕事の疲れで余裕もなく、子どもがかまってもらえる時間は少ないだろう。
 
食事や学習機会だけではない。
他人に大切にされる体験が、貧困子どもは圧倒的に少ないのだ。
 

f:id:pagonasofa:20170123115704j:plain

 
子どもたちが通うまなび場でこんなことがあった。
 
いつも憎まれ口を叩く中学生の男の子。
横について数学を教えていると、
 
「なんだよそれ分からねーよ、にっしー(私はにっしーとよく呼ばれていた)まじ嫌いだわ。」
 
「俺は◯◯のこと好きやけどな。」
 
「は⁉︎きもっ!!!」
 
このやりとりが何度か続いた。
 
「にっしーうぜえわ」
 
「けど、俺は好きやなあ」
 
そして何度目かに
「嫌いだわ〜」という言葉に
 
「そうかあ、、」
 
とだけ言うと
 
「…え⁇ 好きって言わないの…?」
 
 
かわいいな!おい!
言ってほしいんか!
 
誰かに大切にされるという経験が少ないからこそ、彼は私のメッセージにどこか安心感を感じたのかもしれない。
 
 
あいさつをする。
名前を呼ぶ。
横にすわる。
話を聞く。
相手への思いを伝える。
 
単純なことだけれど、相手を1人の人としてちゃんと応じる。
そうすることで、目には見えないけれど、彼らの中にあたたかな栄養がたまっていくのでないだろうか。
彼らが成長したとき、それがいくらかの自信につながったらいいな、と今ふりかえって思っている。
 

 

「自由」のすきま (単行本)

「自由」のすきま (単行本)

 

 

弱さを知るには-わたしの場合-

「弱さ」シリーズ。
最後は私がいかに自分の弱さ、自分の限界点に気づいたか、というお話。
 
以前貧困家庭の子どもの学習支援に携わっていた。
週に2回、まなび場に決まった子どもたちが集まりおしゃべりしたり、勉強したりしに来る。
 
ある男子中学生の学習計画を立てるために本人と面談した時のことである。
 
 
「よしじゃあ今後目標にしたいことはある?」
 
「うーん…頑張る!」
 
「よし!どう頑張ろう?」
 
「うーん…頑張る時間をつくる!」
 
「ぃいよし!頑張る時間てどんなかんじ?」
 
「ぐで~とするんじゃなくて~ペンをもってきっちり座って勉強する!」
 
「ぃぃぃぃぃぃいよぅし!1日どれくらい頑張る時間作ろうか?」
 
「5分!!」
 
「ん?」
 
「5分!!!!!」
 
「ご、5分か…。もももうちょっといけるんじゃないかしらん?30分くらいとか…」
 
「いや!5分!」
 
「常識的に考えたらたぶんもうすこしできるんちゃうかな…」
 
「いや!5分!!!!!」
 
「そそそっそそそそうか!うん!5分にしよう!」
 
 
というやり取りがあった。
 
集中する時間が1日5分…。
中学2年でそれでいいのか、いいのか…と私は思わずにはいられなかった。
しかし彼は自分の主張を変えることはなかった…。
 

f:id:pagonasofa:20170120151520j:plain

 
「中学生なら最低30分は集中すべき」というのは言ってしまえば私の価値観に基づいた言説である。
それを‟常識”という根拠のない強権を盾に私の考えを押し付けようとした。
 
私の描く‟常識”に彼は縛られず、自分の思いをしっかりと伝えてきた。
よくよく振り返れば、普段勉強をほとんどしない彼が「5分でもする」と言い出したのは大きな一歩である。
 
彼の価値観に触れ、私は「自分の思い通りにはならないことが、ある」と気づいた。
 
 
普段の生活の中で他人(ひと)の考えや思いを深く知る機会はあまりない。
むしろ自分のそれと他人のそれがぶつかることを恐れ、出すことを控えることが多いかもしれない。
 
本音をぶつけ合える、そんな関係性が中学生の彼と私の間にあった。
 
「弱さ」。
それは他人との対等な関係から見えてくると、私は思う。

弱さを知るには-シン・ゴジラ編-

自分の弱さと向き合うきっかけとして、人との出会いについて書いてきた。
出会った後気付く、自分と他者の違い。
そこで「自分の考えが全てに当てはまる訳ではない」と自分の限界点を認め、受け入れることが大切だと主張してきたが、それを阻む大きな壁がある。
 
 
私たちは現実を認識する時、あらかじめ決められた物語によって、一定の方向付けをすることが多い。
 
例えば「男は方向感覚に優れている」という言説がある。
確かに脳科学的に男性のほうが女性に比べて空間把握能力が高いという説もあるらしいが、私はそれに反し、極度の方向音痴である。
商店街でひとたび路面店に入れば、店を出た時どちらから歩いてきたのか5秒ほど考えなければならないほどだ。
 

f:id:pagonasofa:20170115144317j:plain

 
あまり私(に空間把握能力が欠如していること) を知らない女性と二人で歩くとき、「この人についていけば行く先は大丈夫」的な期待をかけられている事が多いように思う。
その時彼女は「男は方向感覚に優れている」という物語で自分の認識を方向づけしている。
 
ごめんなさい。ぼくを信じないでください。
むしろエスコートしてください。
 
 
障がい者は弱く常に助けを求めている」
「子どもは3歳までは母親の手で育てられるべき」
「ゲイはおしゃれ」
 
など、個人の考えを縛り、世間の風潮を支配する言説。
家族療法家のマイケル・ホワイトディヴィッド・エプストンは、それをドミナントストーリー(支配的な物語)と呼んだ。野口裕二『物語とケア』)
 
たとえ自分とは違う考えや価値観に出会っても、ドミナントスト―リーに縛られたままでは「私は間違っていない、あの人がおかしいだけ」と切り捨ててしまいかねない。
 
ドミナントストーリーは多数派や権力者(専門家)によって生み出されることが多いが、お気付きのようにそこに科学的根拠がないことも多く、人間全員に当てはまる訳ではない。
にもかかわらず「だってこうって決まっているから」と、さも当たり前のように語られ、私たちの自由な思考は妨げられる。
 
 
今回は『シン・ゴジラ』に登場する‟巨大不明生物特設災害対策本部(通称・巨災対)”設立までのプロセスを引き合いに、ドミナントストーリーの弱点を見てみよう。
 
※以下ネタバレあり
 

f:id:pagonasofa:20170115144955j:plain

 
シン・ゴジラ』は2016年夏に公開された映画で、総監督・脚本に『エヴァンゲリオン』の庵野秀明を起用した話題作である。
 
今までのゴジラシリーズの作風を刷新し、ヒューマンドラマ的要素を徹底的に削ぎ落し、現代日本に巨大不明生物が現れたら…という設定の下、それに対応する日本政府の様子を淡々と描いたところに魅力がある。
 
東京湾羽田沖に出現した巨大生物の対処と近隣住民の避難誘導にあたり、内閣で最も注視されたのが「巨大生物が陸上歩行できるかどうか」であった。
陸上に上がってこられたら尋常ではない被害が出るだろう。
早速古代生物学者や海洋生物学者などが集められ有識者会議が開かれる。
 
その結論は「陸上歩行はありえない」というもの。
 
「この動き。基本は蛇行ですが、補助として歩行も混じっていますね。エラらしき形状から水生生物と仮定しても、肺魚の様な足の存在が推測出来ます。」
 
という、後に巨災対に加わる尾頭ヒロミ環境省自然環境局野生生物課長補佐(市川実日子)の助言もむなしく、有識者たちの結論が採用される。
早く国民を安心させたいという思いから記者会見で「陸には上がってこない」と発表する首相。
しかし、それとは裏腹にゴジラは東京都大田区に上陸する…。
 
 
この有識者が出した物語がドミナントストーリーである。
 
「専門家が言っているから間違いないだろう」と思い込み、それに縛られたからこそ避難対応が遅れ、大きな被害を出した。
もし陸上歩行の可能性も検討していれば…。
 
このようにドミナントストーリーは他の可能性をふさぎ、一つの選択肢しかとらせない。
もし私が「男は方向感覚に優れている」 という言説にに縛られたままであったら、「俺男やのにおかしいのでは…」と自己否定していたかもしれない。
 
しかし何度も何度も道に迷うことで
「あ、俺男やけどそもそも方向音痴かもしれん」
と気づき、「方向音痴な男もいるかもしれない」という気づきを得た。
それ以来私は女性と歩くときは無理せず、先に「俺、方向音痴です!」と宣言するようになった。
 
この一般的に認識されている物語とは異なるものの、別の可能性を持つ物語をオルタナティブストーリー(今まで語られなかった物語)と言う。
それを得られれば私たちはもう少し生きやすくなるのではないだろうか。
 
シン・ゴジラでは、陸上歩行問題から
「あ、既存の考えに縛られてたらゴジラ倒せんかもしれん」
という気付きを得て、各省庁から様々な分野のエキスパートを集結させ、巨災対が編成される。
そのメンバーは‟そもそも出世に無縁な霞ヶ関のはぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児”などで構成される。
彼らが自由な発想で生み出す様々なゴジラの対処法は、正にオルタナティブストーリーだ。
そして遂に彼らはゴジラを活動停止に追い込む…。
 
いつまでも一つだけの物語に支配されていてはもったいない。
自分が信じてきたドミナントストーリーの限界を受け入れれば、外の世界にある様々な選択の可能性を持つことができる。
 
会社勤めが苦手なら専業主夫になればいい。
パンクな障がい者がいたっていい。
 
そうすれば方向音痴な男も生きやすい社会が、きっと生まれるはずだ。
物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

物語としてのケア―ナラティヴ・アプローチの世界へ (シリーズ ケアをひらく)

 

 

弱さを知るには-車の運転編-

前回の記事では自分の弱さについて知るきっかけとなる「圧倒的な他者」との出会いについて、スポーツの強さを取り上げた。

 

kainishii.hatenablog.com

 

しかし強弱だけが他者性の表れではない。

 


仙台市地下鉄勾当台公園駅の構内はとてつもなく長い。
50mはゆうにある。

 

f:id:pagonasofa:20170107002603j:plain


今日の晩ご飯は何にしようかと歩いていると、小学校低学年くらいの子どもたちの集団に出会った。先生に連れられて20人くらいだろうか。

その内半数くらいの子どもが目隠しをし、していない子どもとペアになっている。

 

なるほど。
点字ブロックが長く直線に続く駅の構内は視覚障害実習を行うのにぴったりの環境だろう。

 

「うわー全然前が見えない!」「まっくら!」

 

目隠しをしている子が点字ブロックの上を、ペアの子に手をひかれながら歩いていく。
が、よく見るとワイワイしているのは目隠しをした方の子どもだけで、していない子どもの方は皆そろって真顔である。
見ているだけでハラハラするくらい緊張した面持ちで、目隠ししている子に

 

「ゆっくり…ゆっくり…」

 

「次右足だして、そう、次左足…」

 

と過剰に気を使って指示出しをしている。
それとは裏腹にぐんぐん進む目隠しズ。

 

そんな微笑ましい様子を見ながら、私は車の免許を取ってから初めて長距離運転に臨んだ時のことを思い出していた。

 

取得したものの、大阪・仙台という都市圏で暮らしてきたため、運転する機会が全くなかった私は2年間ペーパードライバーであった。

女の子とドライブデートのときも助手席で運転する彼女を応援する係に回る徹底ぶりである。

 

f:id:pagonasofa:20170107002851j:plain


しかしどうしても今働く大学の仕事の関係で、学生を車に乗せて運転せねばならぬ時が来たのだ。

やむに已まれず、運転の上手い学生のコバヤシくんを助手席に乗せて出発した。

 

コバヤシくんはたいへんにせっかちな性格で、普段話すスピードは一般人の3倍速、何に関しても進行が遅いとイライラしてしまう「いらち」である。

 

出発して早15分で私の運転技術の低さに気付いた彼は、私をサポートするため、そして自分の命を守るため、懇切丁寧に運転教習をしてくれた。

 

「ここ左です。はいサイドミラーを見て。

はい、いいですよ~。

カーブにはいるのでゆっくりブレーキ踏んで。

はい、アクセルを~~ゆっくり~ゆっくり~~はなして~~」

 

 

…本来せっかちなはずのコバヤシくんの心労はいかほどだっただろう。

目的地に着いた時、疲労していたのは久しぶりの運転をした私ではなく彼であった。

 

運転の上手いコバヤシくんにとってペーパードライバーの私が、目の見えている小学生にとって目隠しをしたペアの子が、ここでは「圧倒的な他者」になっている。


「運転すること」「見えること」など、自分が当たり前だと思っていたが、当たり前にできない人がいる。
それを無理に自分の基準に当てはめようとしたところで、私が運転できない事実は揺るがない。


その事実にぶつかった時、人は自分の基準に当てはまらない人がいることに、自分の世界の限界に気づく。

そうなれば、運転や視覚だけではなく、もっと小さな差異に対しても寛容になることができるのではないだろうか。

 

ちなみに運転技術は上がってきたものの、極度の方向音痴のため、未だに車のルートがわかっていない私。
今後も助手席でサポートよろしくコバヤシくん。

弱さを知るには-スラムダンク編-

前回の記事で書いた自分の弱さ、つまり自分の限界点を知るためには、まず「他者と出会う」必要がある。
もちろん自分以外の人とは毎日のように会っているだろう。
しかしその相手と自分の価値観の違いなどを鮮明に感じることはあまりない。
逆に言えばそのような他者の中にある“他者性”に触れる機会があれば、自分にはないもの、自分にはどうにもできないものの存在に気づくことができる。
 
今回含め、3回にわたって「他者との出会い」について書いていきたい。
 
 
井上雄彦の傑作『SLAMDANK』を知らぬものはいないだろう。
高校バスケットボールを描いたその作品には、文字通り手に汗握るシーンが幾度も描かれ、ラストまで息つく暇なく怒涛の展開を見せる。
また「諦めたらそこで試合終了だよ」など名言を数多く残しており、読者の心をつかんで離さない。
 
個人的に「良いスポ根漫画を読み終わった後そのスポーツが上手くなったと錯覚する現象」が最も強く表れる漫画でもある。
今なら3ポイントシュートをぼこぼこ決められそうな気がする。
 
数ある名シーンの中で私が最も好きなのはクライマックスの日本最強の山王高校戦、主人公の所属する湘北高校バスケットボール部の部長である、ゴリこと赤木剛憲が吼えるシーンである。
 

f:id:pagonasofa:20170105104955j:plain

(井上雄彦『SLAMDUNK』)
ここに至るゴリの内面の変化が今回のテーマ「他者と出会い、自分の弱さをしる」を如実に表している。
 
神奈川県NO.1センターと評され、それまでの試合では得点源の1人として活躍してきたゴリの前に、山王高校のセンター河田が立ちはだかる。
ボディーバランス、バスケセンス、シュート力などあらゆる面でゴリを上回る河田に、ゴリの攻撃はことごとく封じられる。
 

f:id:pagonasofa:20170105105137j:plain

 
それまで湘北高校が窮地の際には自分の力で勝利への道を切り拓いてきたゴリにとって初めての経験である。
河田に勝たなくては、と焦るゴリは無謀な攻めを繰り返す。
 

f:id:pagonasofa:20170105111606j:plain

f:id:pagonasofa:20170105105936j:plain

 
周りが見えなくなったゴリにストップをかけたのは、3年越しのライバル、陵南高校の魚住である。
 

f:id:pagonasofa:20170105105226j:plain

 
寿司職人を目指す彼は、大根のかつらむきをしながら、「河田は華麗な技を持つ鯛、赤木は泥にまみれた鰈だ」と形容する。
その言動には「人はそれぞれ違い、できることとできないことがある」「ゴリは刺身のツマのように引き立て役になることができる」というメッセージがあった。
 

f:id:pagonasofa:20170105105448j:plain

今まで誰よりも強かったからこそ、自分が勝たなければ湘北高校は負けると思っていたゴリ。
それが河田という圧倒的な「他者」と出会うことで、彼は自分の限界に気付く。
 
「バスケのうまさ」だけではなく、「経済力」「社会的評価」「イケメンさ」など、様々な個人の強さだけを追い求めても、必ず自分よりも上がいる。
その時、頼りにしていたその強さは一気に崩れる。
 
その事実を受け入れず、「俺は負けない」とゴリが延々と河田に勝つことに執着し続けたら…。
ゴリが魚住の助言で自分の限界を受け入れ、「個人の強さ」ではなく、「他のメンバーの力」に頼ることができたからこそあの湘北高校の奇跡的勝利はあった。
 

f:id:pagonasofa:20170105105329j:plain

 
もちろん個人の努力も大切だ。
しかし、そこには限界がある。
それを受け止めれば、私たちの可能性はさらに広がる。
 
その一連のプロセスをゴリは見せてくれた。
 
また、ゴリがそうであったように、自分の弱さを受け入れるのは難しい。
その時私たちにとっての魚住はいるか。
 
「お前は鰈だ」と言ってくれる存在をつくっておくのが、カギになるかもしれない。

新年早々自分の「弱さ」を考える記事

2016年最大の気づきは、「弱さを受け入れること」の大切さである。
 

f:id:pagonasofa:20170103002407p:plain

 
私を含むミドル〜ハイクラスの人間は普段、自分の周りをある程度自分の価値観に沿うもので囲んでいる。
 
気に入った服、好きな食べ物、仲の良い友人、そこそこやっていける職業。
 
つまずきこそあれ、自分の言動を強く阻むもの、自分の価値観と全く異なるものに出会うことはあまりない。
インターネットで情報を拾うときも、自分にとって都合の良い情報しか引っ張ってこない。(例えば主義主張が同じ人しかTwitterでフォローしないように。)
 

f:id:pagonasofa:20170103002922j:plain

 
 
その状況に慣れすぎると、私たちはふと、自分の納得できる世界がどこまでも続いているような錯覚を起こす。
人は自分と同じ考えで、同じものを望んでいると考えだす。
 
「自分の世界の限界点」を知らなければ、私たちはちょっとしたことで攻撃的になることがある。
 
例えば誰かと会話していて相手の意見が自分の価値観にそぐわなければ、たとえ答えのない話題であっても、「あなたは間違っている」と主張しだす。
対話ではなく、どっちが上か下かを決めるディベートになってしまう。
そしてそうした人ほど、理論武装が上手く、何か客観的事実に基づいた絶対正義のように他者を否定する。
 
これが他者への攻撃。
攻撃の対象が自分になることもある。
 
思い通りの環境にいると、なかなか自分の力の限界に気付かない。
自分のできることと、できないこと(=他の人に任せた方がいいこと)の切り分けが上手くできなくなり、働きすぎたり、他人に介入し過ぎたりする。
 
また弱さに気が付いても、それを受け入れず、周りに気づかれないように自分を覆う人も多い。
その結果陥るしんどさについては以前ブログでも書いた。
 
限界を超えて動き、自分を偽って生きる。
それはいつかどこかに歪が生まれる。
 
今世間で話題になっている不寛容、いじめ、ハラスメント、DV、差別、過労、自殺など、あらゆる問題は、この「自分の世界の限界点を知らない」ことに集約されると思っている。
 
自分の思い通りにならないことは、確かにある。
 
「弱さを受け入れること」と「弱さを受け入れることの大切さを伝えること」。
これを今年の目標にしたい。
 
ひとまず今日から「弱さを知るにはどうすればいいか」のシリーズを書いていこうと思います。